リーズナブルプランディ・デュインターBased on the text FictionMania Translated by Rino Maebashi 「ものすごくまともな話じゃないか」 さっきから怒っている妻に、僕はそう主張した。 「僕が頼んだようなことは、これまで何百万人もの女がしてきたことだぜ。もう少し、夫の僕が気に入るような、女らしい格好をしてくれって言ってるだけなんだから」 「そんなの、その何百万人の女が馬鹿だっただけよ」 彼女は僕の方が「まとも」じゃないとでも言わんばかりに、大声で言い放った。 まともな会話のなりたつ議論に戻そうと、僕はより穏やかなトーンで続けた。 「あのね、ジュリー。僕が言いたいのはさ、君の外観に、もうちょっと気を使ったらどうかってことさ。僕が、君のことを自慢できるようにね。やろうと思えばすぐできることだろ」 「あっそう。あなたは、私のこと、自慢できないってわけね」 彼女は、僕の言葉のいちばんまずいフレーズにかみついてきた。 「いや、もちろん、誇りにしてるさ」 僕は、あわてて言った。 「君はきれいだよ。だけど、ほんのちょっとのことで、友達の反応とかも、もっとよくなるって気がするんだ。もうちょっとちがう君を見せてほしいってことだよ」 彼女がいらだたしげに顔を逸らしたので、彼女の黒くて長いウェーブの髪がゆれた。 だが、彼女は、議論をやめただけで、部屋から出て行きはしなかった。 「ハニー、ほんとに、僕らは馬鹿なことを議論してると思うんだ。どう考えても、僕の言ってることの方がまともだと思うよ。でも、君がいやだって言うんなら‥‥」 どっちにしても、彼女を強制することなどできないことはわかっているので、僕はちょっといらいらした。 「ねえ、今やってるプロジェクトはいつまでつづくわけ?」 彼女は、唐突に話題を飛躍させた。 ちょっと説明がいるだろう。 僕の名前は、ジェイ・コナーズ。仕事は契約ハッカー。つまり、いろんなコンピューターシステムのセキュリティ・テストために、そのシステムに侵入してみせ、そうすることで開発を助けてるってわけ。 僕は、どこでも入ってみせる。(そうなんだ。ペンタゴンのシステムにだって、気づかれずに入ったことがあるんだぜ。) 僕は、他の誰がつくったより、いいセキュリティツールやソフトを供給できる。(僕のちょっとした裏技を見逃してくれるならね。) ただ、いいサービスを提供するためには、ほとんどのプロジェクトは、何ヶ月もかかるもんなんだ。他の誰かが熱くなりそうなシステムは、僕も燃えちゃうからさ。 もし、僕よりすごいハッカーがいるとしたら、彼(彼女)は、僕が関わったプロジェクトのどこかにしかいないはずだ。で、今までのところ、僕のプロジェクトにそんな奴らの痕跡はない。つまり、僕のリーグで、僕のディフェンスを突破できるやつなんて、いないってことだ。 「たぶん、3週間くらいかな」 僕は彼女が仕掛けているパズルに答えた。 「‥‥で、なにが言いたいわけ?」 「つまり、あなたのプロの目から見て、これから3週間、あなたは誰と会う必要も、話すこ必要もないってことね」 「ああ、そのくらいはね。それに、僕がいくら納期を伸ばしたって、だれも文句は言わないよ」 その時、彼女は、勝利の微笑みとそれにマッチしたトーンで言った。 「オーケー。それなら、あなたの言ってることがまともかどうか試してみましょうよ。あなたのささやかなファンタジーを採用しましょ。でね、あなた自身がそれをやってみるの。その上で、まだあなたが、それがまともだって言い張るんなら、私は、あなたの言うとおりのするわ」 僕がなにか言いかける前に、彼女は、僕が言いそうな口調で「私だって、馬鹿じゃないんだから」と言った。 「あなたが私に要求してることは、男女差別とかいうレベルの問題じゃないって、あなたは言いたいわけよね。私は、あなただけをこんなに愛してて、あなたを幸せにしたいと思ってるわ。でも、あなたが私に求めてることって、とてもまともとは言えないほどやっかいで、気分が悪くって、不便なことなのよ。もし、あなたがそんなことないって言い張るなら、あなたがそのめんどくさいことをやってみて、証明してみせてよ」 さっきまでの悲しそうな顔は去り、まるで風船から空気が抜けるように、彼女の怒りは納まった。 彼女は近づくと、僕の体に腕をまわし、僕の胸に頭を預けた。 「私、ほんとにあなたのことを愛してるんだから。喧嘩なんてしたくないのよ。でも、あなたって、ちっとも私のこと、わかってくれないんだもん。これまで、私が、あなたを喜ばせるためにやってきたことを、あなた自身でやってみれば、きっとわかってくれると思うの」 彼女は、僕の胸から頭を離し、僕の目を見てつづけた。 「私は、あなたの判断を尊重するわ。あなたの抱いているファンタジーをやってみましょ。あなたが私にやってほしいと思うことを、あなた自身がやってみるのよ。私も、本気で協力するわ。喧嘩なんてやめて、あなたが私のためを思って言ってるんだと信じられるように、努力してみましょうよ。そのあとで、まだ、あなたがおんなじことを望むなら、その時は、私もあなたの望むように、できる限りのことをするつもり」 「それだけ?」 僕は、せっかくよくなってきた雰囲気を壊したくなくて、彼女の言ってることをまともに考えてみようともせず、微笑みながら彼女の体をつついた。 「それだけよ。でも、きっとたいへんなことよ」 彼女は、そう言って笑った。 「あなたの言ってることの意味がわかるまで、私とおなじことをするのよ」 「やだね。なにを寝ぼけたこと言ってるんだ」 僕は、鼻で笑いながら言った。 「要するに、爪を長くして、高いヒールを履いて、スタイルが崩れないように、ちょっとシェープアップに心がける。それのどこが、まともじゃないと言うんだい」 彼女はまた、あっという間にいらついた顔に戻った。 「やってみるの? それとも、黙る?」 彼女は強い調子で言った。 「やってみる気があるなら、私の言うとおりしてよ」 そう言うと、彼女は、僕の腕から離れて、部屋を出ていこうとした。 黙ったまま握りしめているその拳から、彼女がさらに怒っていることがわかった。 僕がなにかをしなければいけないのはわかっていた。 でも、僕の言っていることが、まともじゃないとは思わないし、一方で、よりよい夫婦生活をあきらめることだって、僕にはできない。 「待てよ、ジュリー。オーケー。君の勝ちだ。僕のできることを試さずに、君を失うなんて、僕はしたくない」 彼女はまた、にっこり笑って振り返った。彼女の感情がいとも簡単に変わることに、いつもながら僕は驚いた。 「そう。それで、あなたはなにから始めようっていうわけ?」 彼女は、くすくす笑いながら言った。 「いや、べつに」 僕は言った。 「僕はただ、君を失いたくないって言っただけだろ」 彼女は、すぐに笑って、僕の言葉を訂正した。 「今、あなたは、僕のできることを試さずに、君を失うなんていやだって言ったのよ。それで、あなたはなにを試そうっていうの?」 僕は、僕の「まとも」で崇高な立場を維持しようと、主張した。 「僕の言ってることはまともだと思うよ。でも、そんなことはどっちでもいいことだということも認める。そんなことは、僕にできるようなことじゃなくて、ものすごく女っぽいことだもんね」 「あなたは、誰にも知られないで、それができるのよ」 彼女が言った。 「あなたは秘密でハイヒールを履くことができる。誰にも知られずにね。さっき、あなたに、一人きりの仕事がどれくらい長くかかるのかを聞いたのは、そのためよ。それだけあれば、他のことだって誰にも知られずにできるわ。たとえばね、サリーに協力を頼んでみようと思うの。彼女、私の行ってる美容院のネイルアーティストなのね。彼女の力を借りれば、あなたは、あなたがこだわってた長い爪を手に入れられるはずよ」 「爪を伸ばしたりしたら、キーボードを使って仕事ができなくなるじゃないか」 「それこそ、私の言いたかったことよ」 彼女は勝ち誇ったように言った。 「私だって、キーボードで仕事してるのよ。でも、あなたは、私に爪を伸ばせっていう。あれくらいじゃまなものはないのよ。私にとっても、あなたにとっても、誰にとってもね」 今度は僕がいらいらしてきた。 ジュリーの勤めるような不動産会社に限らず、僕は、長くて魅力的な爪を持った、たくさんの秘書を見たことがある。彼女たちのタイピングやキーボードの仕事は、長い爪だって、慣れればできないことはない。 でも、僕が求められているのは、長時間にわたって、センシティブなシステムに侵入を試みるという仕事だ。それは、全然別のものだろう。 僕は、まだ勝ち誇ったように満足げな顔を向ける彼女に、そんなふうに言ってやりたいと思った。でも、そんな言い訳は、彼女の独善の火に、格好の油を注ぐことにしかならないだろう。 僕の負けん気な性格は、僕の頭の中に、まともじゃない考えを育てていった。そして僕は、自分が、彼女の突飛な提案を受け入れるのを聞いた。 「わかったよ。君のやりたいようにやってみろよ。僕もそれに従うよ。君のネイルアーティストとやらにアポを取ってくれ。で、僕は爪を長くしてやろうじゃないか。僕の言ってることが、しごくまともだってことを、君に見せるためにね」 「いつまで?」 彼女はさらに攻めてきた。 「君が、僕の言ってることが正しいと認めるまで、どれくらいでも。今の仕事をやってる3週間のうちはね」 「オーケー」 彼女は、歯を見せながら言った。 「とてもハイ・ヒールズな(高くつく)けんかだったわね」 いらだちの津波が僕をとんでもなくばかげたところに連れて行ってしまったというような、圧倒的な衝動を感じながら、僕は、自分の声を聞いていた。 「上出来だ。ハイヒールだってコルセットだって、君がまともじゃないっていうものはなんだって着けてやろうじゃないか。世間に知られないというならね」 「取引成立」 彼女はあっさりと言った。あまりにもあっさりと。 僕は、もしかしたら、最初から彼女に操られていたんじゃないかと疑わしくなってきた。彼女は僕をはめるためにこんなことを言ったのだと思いたくなるほど、彼女の勝利のにやにや笑いはつづいていた。 まあ、たぶん、そんなことはないだろう。僕の方が、混乱しているだけにちがいない。 「で、いつから始めるんだい?」 いったい自分がどんな事態に突入しているのか知りたくて、僕は、ためらいながら聞いてみた。 ちょっと考えたあと、彼女は答えた。 「明日から。明日、あたしはあなたの服をそろえるわ。それから、サリーがいつも店を閉める時間にアポを入れておく。つまり、他のお客さんのいなくなった時間にね。あなたが、彼女のサロンから戻ったら、私は用意した服をあなたに着せる。ハイヒールとか、あれこれとかもね。で、今日から3週間後まで、あなたは、あなたの爪がきれいに見えるように、その格好で暮らすの」 僕はうなずき、彼女のかたくなさに腹を立てたまま、そして、自分が受け入れてしまったことに不安を感じながら、中断していたハックのための穴ぐらへ戻った。 すぐに僕は、僕の仕事、つまり、顧客の個人的なビジネスに忍び込んだり、のぞき見したりする仕事に熱中した。 実際の話、今やってるプロジェクトは、スペンサー工業の社長、リチャード・バンクロフトが、ソフトウェア、そしてハッカーについてよくわかっていないから、比較的ラクなものだった。彼は、そういうものは、論理的で、厳密な法則に則ったものだと思っているようだ。でも、本物のハッキングは、歴史上の名匠たちの作品のように芸術的なものなのだ。 この社長は、以前僕がチェックしたことのある他の会社の何人かから、BBSでアドバイスされて、僕を雇った。彼は自分のところのシステムが鉄壁だと確信しているのだ。そして、だからこそ、そのシステムがどのくらいもろいものか教えてやることは、喜びになるのだ。 たぶん、今度のプロジェクトで、僕は、彼の会社の偽の身分証明書をつくって、会議で見せることになるだろう。それは、彼の注意を引かざるを得ないものになるはずだ。僕のしたことは、顧客にとって、彼のシステムの無防備さがいかに重大なことなのかを知らせ、そして、システムの改善の必要をわからせることになる。 他にも、僕は、僕あてに小切手を振り出してみせるつもりだ(現金化するわけではなく、証拠として見せるために)。それから、ウソの会議に召集するためのメモを、システムに送り込むこともしよう。その上で、僕は、顧客のセキュリティの発展のために、すでにできあがって特許もとってあるアプリケーション(それは、今のところ、まだ発表していないものだ)を持っていく。 それで、会社のシステムに、いかに無防備なままの情報が多いか驚いた彼らは、それぞれの独立したシステムの間のトラフィックに、僕が必要であることを知ることになるだろう。 その日の午後は瞬く間に過ぎ、夜になった。そして、朝が来る前に、僕は、侵入のための最初の段階を終えていた。 仕事に熱中するあまり、夜中に働くことは珍しくはない。 疲れ切って、ベッドに入った頃には、僕は、ジュリーが仕掛けた挑戦のことや、ばかばかしくも僕がそれを受け入れてしまったことなどをすっかり忘れていた。 約6時間の睡眠の後、正午に、僕は電話の音で目を覚ました。 僕らは、無料の電話が利用できる。僕が潜入のための専用回線を持っているおかげで、いくつかの回線を、そのためにまわせるのだ。そのうちの1本を僕はジュリー専用にして、特別のベルが鳴るようにしていた。 その電話の音は、僕の脳髄のもやもやを透過して鳴り響いていた。あわてて出た僕は、受話器を取り損ないハンブルしていた。 「やあ、なに?」 僕は、不機嫌な声で言った。 受話器の向こうからは、ジュリーのくすくす笑いと、驚くほど快活な声が響いた。 「おはよう、お寝坊さん。私のランチ、頼んである?」 「え? なんだって?」 僕は、自分の頭をはっきりさせようとしながら聞き返した。 彼女は笑い声だけで答えながら、僕が目を覚ますのを待っていた。 少しして、僕はやっとリアルな世界にチューンし直すことができ、大人としての会話を運ぶことができるようになった。 「オーケー。どこで、何時に?」と僕。 「20分後に、ダニエルの店でいい?」と彼女。 「30分後にしてくれると、ありがたいんだが」と僕がつづけた。 「出る前に、シャワーを浴びて、ひげを剃りたいんだ」 「そうね」 彼女のくすくす笑いが、どこか不吉な感じを帯びた。 「あなたは、今日、確実にひげを剃る必要があるわね。ジェイ」 確かに、僕のひげはまばらにしか生えていない。剃らなくてすむ日もけっこうある。 ジュリーが仕事に出掛ける時など、僕は、彼女をワールドクラスの美人だと感じるのだが、それは、テレビドラマのルーシー・ローレスのような光沢のある濃い髪と、ブルーの瞳のせいだと思う。で、僕の方はといえば、目だけは澄んだクリスタルブルーだけれど、髪はくすんだブロンドだ。腕で光る体毛は目立たず、ないも同然だった。胸毛もまた、まばらだ。ジュリーがときどき、僕をからかいたくなったとき、引っ張って遊ぶくらいが関の山だった。 ひげを剃ろうと鏡をのぞくと、いつものことではあるけれど、僕の顔は期待に反して弱々しかった。驚くほど突き出ている頬骨を除けば、僕の顔の骨格構造は、ぼんやりして印象的とは言いがたいものだ。当然、僕はそれを、プロジェクトの最中で食事が不規則なせいにした。 まあ、僕が非常にやせているせいでもあるだろう。5フィート9インチで130ポンド(175センチで59キロ)しかない体は、薄っぺらく広がっている。しかし、どういうわけか、骨が突き出たりはしていない。膝やなんかも、ごつごつしてなくて細いのだ。 いつものジーンズとスポーツシャツを着込んで、僕は早々に準備を終え、昼食に出た。 僕の悪趣味のひとつ、ポケットロケット、つまり、真っ赤に輝く300ZXターボ・コンバーチブルは、気持ちよく発進した。ジュリーはいつも、この車のことを、僕の人並みはずれた羞恥心に対する過剰補償だとか言ってからかう。それは、たぶん正しいんだろう。でも、僕は気にしない。僕はその車を気に入っていることで、肉体でカッコつける必要がないのだ。コンピューター・ハッカーのすべてが、そのライフスタイルに、貧弱な筋肉と発展途上の会話能力しかもてないオタクというわけじゃないんだし。 ま、つうわけで、数分後に僕は、僕もジュリーも大好きな、ジューシーで分厚いことで有名なハンバーガーを出す店に入ったわけだ。僕だって、食べるときはちゃんと食べるんだ。 そのレストランは、わりと近くのショッピングモールにあった。僕が入っていくと、もうジュリーはブースの席に着いていて、たくさんの買い物包みに囲まれていた。 「ごきげんよう。誰かここで店開きでもするのかな?」 僕は、歯を見せて笑いながら挨拶した。 「そうじゃないわよ。でも、私、待てなかったの。私は今日、あなたのために準備するって言ったでしょ」 彼女の言葉に、僕は明らかに当惑した表情をしたんだと思う。 「あなた、忘れちゃってたのね」 勝利の笑顔を復活させて、彼女はにやにやした。 そのにやにや笑いは、僕がした馬鹿な約束を思い出させた。 僕は、そのまま帰りたい誘惑に駆られたが、その同じにやにや笑いが、僕の強情さをふたたび呼び覚まし、僕の主張がまともだってことを彼女に認めさせようと決意させた。 「あ、ああ、覚えてるさ。で、君はなにを買ってきたんだい?」 彼女は、くすくす笑いながら答えた。 「のぞかないでよ。それより、あなたの手を見せて」 僕が、手のひらを上にして手を出すと、彼女は、それを裏返すように合図した。 「そうじゃない。私は、あなたの爪が見たいのよ。よろしい。馬鹿な子がするように、あなたは爪を噛んだりはしてないようね。準備オッケーてわけね。サリーの今日最後のアポイントメントは、4時過ぎまでだそうだから、そのころには行ってよね。仕事にかまけて、忘れちゃダメよ。それに遅れると、家に帰ってからしなきゃならないことがどんどん遅くなるんだから」 僕は、それに、うなり声で答えた。 「僕は、たぶん遅れるな」 「いいこと、あなた。私はべつに、あなたを狂わそうとしてるわけじゃないのよ。あなたの言ってることがまともじゃないってことを、はっきりさせたいだけなの。あなたがしたくないなら、べつにしなくていいのよ」 「そりゃ、君に納得させるのに、こんなやり方はしたくないさ」 僕は、そう応じた。 「だけど、僕だって、君が僕のことをアンフェアだとかなんだとか思ってるとしたら、面白くないんだ。でもさ、君のその態度は、ゆうべとまたちがうじゃないか。ゆうべは、僕をそこに追い込んだくせに、今は、もうひとつ気が進まないみたいだ。ほんとのところ、君は、どうしたいんだい?」 彼女が、少しの間物思いに沈んだようにして、その後で言った点が、僕はちょっと気になった。 「あなたにドレスアップしてもらうことは、じつは、私のファンタジーだったりするの。女性をより理解する人がよりよい恋人だと、私は思ってるわ。で、あなたはそうだと感じるから、私はあなたを愛してる。でも、ときどき、私があなたのことを理解しようとしてるのと同じくらい、あなたが私のことを理解してるとは思えなくなる時があるの。で、このやり方が、なんだか、二人の共通の基盤を見つけられる方法だって気がしたの。だけど、服を買った後、ちょっと極端かなって気がしてきて‥‥。あなたが気が進まないなら、私やめてもいいのよ」 どこか割り切れない気持ちの出口を探しながら、物思いに沈むのは、今度は僕の番だった。僕は、ベッドでも生活の中でも、いつもかなり、ジュリーを満足させていると思っていた。でも、僕が愛してるということの中身は、僕の欲望とニーズだけに焦点を合わせているもののようだ。その時になって初めて、僕は、たぶん僕がまともじゃない存在になっているんだということに気づいた。長いつめやハイヒールから来る問題の絶対量など、大したことじゃない。でも、少なくとも量の問題について言えば、妻はじゅうぶんまともに、僕につくしてくれているというのに、その見返りとして、僕が彼女に与えているものは、けっして多くない。 「君がそんなふうに感じているなんて、僕はちっとも知らなかったよ」 僕は、優しい口調で言った。 「ごめん。僕は、ひどくわがままだったみたいだ。君がしたいと思うことは、なんでもするよ。どうやら、僕は君にずいぶん借りがあるようだ。ずいぶんたくさん」 「ううん、あんまり自分を卑下したりしないでよ。そんなこと、どっちもどっちなんだから。私だって、けっしてあなたを満足させてきたわけじゃないことは、わかってるの。ここから始めましょ。あなたは、私のためでなく、私たちがいい関係でいつづけるために、それをしてみて。その上‥‥」 彼女は、また、無邪気なくすくす笑いをしながら、つづけた。 「これはきっと、とっても楽しいいたずらよ。もしかすると、私たち、それが面白いって思えるかもしれなくってよ」 「ああ、そうだね」 僕は、鼻を鳴らしながら言った。でも、僕は、まだ、僕がジュリーを喜ばせるために、大したこともしてこなかったという思いに捕らわれていた。そして、これから、自分がどのくらいそれができるかと。 食事を楽しむ間、僕らは感情的な話題は避けた。僕は、いつもの滑稽なハンバーグを食べ、急速に満腹になった。 ジュリーは、そんな僕を見て笑った。 「そのバーガーを堪能しといてね。しばらくの間は、それが最後のものになるはずだから」 「ん? どういうこと?」 僕はきいた。 「今にわかるわ」 彼女はそう答えただけで、話を変えた。 「さあ、約束に遅れないようにね」 そう言うと、荷物をかき集め、帰る準備をしはじめた。 「手伝おうか?」 「手を出さないで。今は、この中身をのぞいてほしくないの。じゃ、夕方、家で待ってるわね」 僕は、家に帰って、仕事のつづきをすることにした。でも、僕が本当にはジュリーのニーズを理解していなかったんだという彼女の優しい忠告は、いつにも増して、僕の心を大きく開いていた。突然の明解さで、僕には、彼女がどのくらいがまんしてきたのかがわかった気がした。 いつも、たいてい僕は、コークの缶とコンピューター雑誌を散らかしていた。僕が持ってるほとんどの服は、滅多に着ないから、逆に、手入れしてないことで長持ちしている。で、家の中は、いつもごった返してる。 僕は、仕事をするためにその穴ぐらに帰ったのだけれど、僕の気持ちの動揺は、僕を戸口で立ち止まらせた。僕は、その午後、仕事をするかわりに、家の掃除をすることに費やした。僕の穴ぐらを除くすべての場所が、あるべき姿にあるように。でも、かなり忙しく働いているにもかかわらず、まだ手の着いてない場所が残っていた。 あっという間に時間が過ぎ、気がつくと4時近くになっていた。僕はそれに驚いて、慌てることになった。それでも、ジュリーの美容院に行くべき時には、皿はすべて洗い終わり、他の部屋の混乱も、おおかた片がついていたんだ。 僕のポケットロケットは、なんとか時間に間に合った。その午後の忙しさから抜け出したとき、僕はやっと、なにをしようとしているのか悟った。僕はまだ、多少のばかばかしさと、入っちゃダメだと教えられてきたテリトリーへ入ることへの恐ろしさを感じていた。しかし、そこには、僕がこれまで学んでこなかった種類のエキサイティングなものがある気もした。たぶん、それが、ジュリーが言っていたいたずら心みたいなものだろう。あるいは、僕がジュリーに近づいているって感じかもしれない。 僕は、僕が妻にやらせたいと思ったことを、本気で自分で試してみようと思っていることに気がついていた。この冒険が、僕らの暮らしに、けっして少なくない変化をもたらすことは確実だと思えた。僕は、これで、僕らの関係について、本気で考えることになるのだから。 僕がサロンに入ったとき、最後の客が、支払いをしているところだった。まだ外は明るかったが、明るい駅前からは離れていたので、サロンの中は薄暗かった。ただ、マニキュア用のテーブルのランプだけが点いていた。出ていこうとしている女性は、けっして滑稽ではなく、魅惑的に長い爪をしていた。それは、エレガントなスタイルに整えられ、磨かれて、深紅に輝いていた。 カウンターの向こうにいる女の子も、やはり同じように美しい爪をしていた。で、僕は、彼女こそ、ネイルアーチストのサリーだろうという結論に達した。 サリーは、ちょっと気取った感じで、挨拶した。 「私がお相手します」 と、客の方の女性が声をかけてきた。 「あっ、あなた、マニキュアするわけ?」 「え、ええ。家内が、そうするように予約を入れたんです」 僕は、口ごもりながら言った。 その女性は、僕がいずらそうにしているのを、ほくそ笑んでいるようだった。 「べつに恥ずかしいことなんてないわ。男の人だって、けっこうマニキュアするのよ。それが、あなたを女にしてしまうわけでもないんだから」 その言葉に、サリーの口が、にやにやするように引きつった。でも、彼女はなにも言わなかった。 客が出ていくと、サリーは、僕をテーブルにエスコートした。 「まず、はじめに‥‥」 彼女は、話しながら、仕事を始めた。 「あま皮のケアからね。ミセス・サンダースは、男性がマニキュアすることについて、間違ったことを言ったわけじゃないわ。あなたにすることになってる『特別コース』以外にも、私は、あなたの手にいろんなケアができるのよ」 僕は、息を呑んで聞き返した。 「『特別コース』? ジュリーは、君に、なにをしろって言ったんだい?」 「ほんとのところ、あんまり詳しくはきいてないの。奥様とあなたとの協定の背景について以外はね。私が知ってるのは、奥様は、あなたが先に長い爪を試してみて、それが不便だと思わないって確信もって言えるなら、自分もやることに同意したってこと。私がやるべきことは、長くて形の整ったつけづめをあなたに選んであげること。でも、彼女は、私にさせたいより長い爪を望んでいるわけじゃないって伝えてと言ってた」 僕がうなずくと、彼女はつづけた。 「で、あなたは、どんなタイプの爪にしたいの?」 「よく、わかんないけど」 僕は、混乱しながら首を振った。 「君がいうのは、つまり、ここには、ひとつだけじゃなくて、いろんな爪があるってこと?」 「ええ、そうよ」 彼女は笑いながら答えた。 「いろんなタイプとスタイルのがあるわ。あなたの好みをきかせて」 「僕は、そんなこと、考えてみたこともなかったからな。君のつめは、すごく可愛いよね。それなら、ジュリーに似合うと思うな。さっき出てった女の人も、その感じのいい爪だったよね」 「つまり、これはジュリーにはぴったりだって言いたいわけ?」 彼女は微笑の中に、かすかにからかいのまなざしを込めて、きいた。 「もちろん」 僕は、力を込めて言った。 「今やろうとしてることのすべては、たとえば君みたいに、多くの女性がしてることは、そんなに悪くないって、彼女に思わせるためだからね。彼女はそれを試すべきなのさ」 すると、サリーは、話を次に進めた。 「私も、彼女はこれをやってみるべきだと思ってるわ。だけど、あなたはどうするの?」 「僕は、ジュリーに納得させたいから、それをやるのさ。彼女にとっていちばんいいものを選ぶべきだってことさ」 「オーケー」 そう言って、彼女は引き下がった。 「だけど、私は、私がつけてるものが、あなたにいいとは思わないわ。私の爪は、指先を1インチ近く出てるのよ。これだと、指を使いにくくさせちゃうわ。最初は短いのから始めて、だんだん長くしていく方がいいわよ」 僕は、それに反論した。 「ダメだよ。これは、短期間の契約なんだから。ジュリーにそれを試すように説得するためだけのね。だから、僕は、彼女に似合う最適なのを選ぶべきで、短いのがいいなんて思ってないんだ」 「そうね。じゃ、こういう妥協はどうかしら。ミセス・サンダースは、指先から半インチのをつけてるの。それなら、あなたも妥協できるでしょ。彼女の爪は、いい感じだって、さっきあなたは言ったんだから」 「オッケー。それでいいと思うよ。さあ、始めよう」 「そんなに慌てないで」 サリーは、また笑いながら言った。 「まだ、タイプとスタイルを選ばなきゃ」 「君のしてるようなやつを。あるいは、さっきの彼女の」 「その2つは、全然違うタイプなのよ。気づかなかった?」 「さあ、色を別にすれば、おんなじように見えたけどな」 「もし、あなたが費用を気にしないなら、絹でラップしたのを勧めるわ。その方が長持ちするから。見栄えもいいし、私のより、ちょっとだけ厚いんだけど、もちもいいのよ。ミセス・サンダースが使ってるやつね」 「オーケー、オーケー。彼女とおんなじので、彼女と同じ長さで。さあ、始めようよ」 「じゃ、まず、あなたのあま皮をとるわね。それから始めるって、さっき言ったわよね」と、彼女はほくそ笑んだ。 とは言いながらも、僕らが話している最中から、彼女はすでにその作業を始めていた。でもそれは、彼女が作業を始めたときより、僕の爪を長くするというものではなかった。彼女は僕の幾分かは筋肉質で大きい指の輪郭と格闘するように、速く、しかし細心の手つきで作業を進めた。彼女の仕事は、僕の手を、まあ、女性の手の範疇に見えるように変えていった。もっとも、もともと、僕の指はどちらかといえば華奢で、ごつごつしてはいないのだが。 「あなたって、コンピューター・タイピングの仕事をしてるんでしょ。賭けてもいいわ」と、彼女は笑いながら言った。 「どうしてわかるの?」 「ふふ、ジュリーから聞いたの。いろいろとね。女って、こんなふうにいっしょにいなきゃいけないときには、おしゃべりするものよ。それ以外にやることってある?」 「なるほど」 で、僕はちょっと考えた。 「ジュリーは、僕について、どんなことをしゃべってるの?」 「うーん、彼女の会話を言葉どおり繰り返すなんて、できないわ。だって、女の人たちが私と話す時って、無防備にくつろいじゃってるわけだし。でも、これだけは言ってもいいと思う。ジュリーは、今度のことに期待してるってこと。このちょっとした実験で、あなたのドレスアップした姿を見るのことに、彼女、かなり興奮してるみたい」 「ほんとに、彼女がそう言ったの?」 と、サリーは首を振った。 「ううん、彼女は、そんなようなことは何も言ってないわ。そんな感じがしたってだけの話。でも、どのくらいたくさんの女が、そんなファンタジーを持ってるか知ったら、あなたはきっと驚くわ。女が毎日してることを本気で理解しようとする男がいたら、それは最高の恋人よね。少なくとも私たちは、男の思ってることを理解しようとしてるわ。愛してるかとか、私といてうれしいかとか、女がききたがるのって、そういうことでしょ。男の方がそんな気持ちになってくれて、やっと平等なんだと思う。ジュリーがなにをしたいと思ってるのか考えると、私、ちょっと彼女がうらやましくなるわ」 「僕のことで、ジュリーをうらやましいと思ってるって?」 僕は、ちょっと驚いてきいた。 と、サリーは、自分の個人的な興味から、第三者のファンタジーに勝手な仮説を立てた上で、口を滑らせていることに気づいたらしく、赤面した。 でも、僕の手だけを見て、うつむいて仕事をしている彼女の姿から、今のが彼女の本心だということはわかった。 と、彼女は、僕がまだ彼女の答えを待っているのかを気にして、見上げてきた。僕の好奇心にあふれた視線と、彼女の視線が交差した。彼女が小さく頷いたので、その髪が、前に落ち、彼女の顔が隠れた。 「ごめん、サリー。わかったから」 彼女の興味から引き起こされた必要以上の緊張を解きほぐすために、僕は、笑いながら言った。 「ええ」 彼女は、またブラシの仕事を始めながら言った。 「私、べつに、大したことを言いたかったわけじゃないの」 「うん、ありがとう。だけどさ」 僕は優しい口調で言った。 「僕がこれまでつき合ってきた女の子たちも、僕は少しもわかってないと思ってたんだろうな。今、それがよくわかったんだ」 僕が怒っているのではないこと、それに、これ以上彼女の気持ちに立ち入る気のないことを示したので、彼女はにっこりした。そして、ふたたび視線を落とすと、熱心に仕事を再開した。 僕は、指の格好に制限を加えられていることに困っていた。指を動かそうとするたびに、抵抗され、ひとつの形を強いられるのだ。こんな時に必ず起こる鼻のかゆみに、それを無視しようと平生を装っているしかなかった。でも、そのかゆみはおとなしくしていてはくれなかった。それで、とうとう、僕は手の甲でそこをこすろうと、慎重に片手を持ちあげた。サリーは、僕が、彼女の大事な取扱物件と戦っているのを見て笑ったが、その後、僕が彼女の仕事を台無しにしていないかを点検しただけで、それ以上何も言ったりしなかった。 何時間もたったような気がしたが、実のところ20分後、彼女はその作業を終えた。 「オーケー。色はどうしましょう?」 「色?」 僕は、馬鹿みたいに繰り返した。 「そう。このスタイルは、カラーコートが必要なの。素材が自然の色じゃないから、カバーする必要があるのよ。それに、太陽光線がゼラチン質を黄ばませちゃうし。あ、そうだ。ジュリーは、あなたが思うほど、目立つ色を使わないように伝えてくれって言ってたわ。青っぽいのとか、薄いピンクとかを選べば、お好みなんでしょうね。エレガントな感じにするには、輝いて見える、ファイアリー・レッドがいいと思うんだけど。その方が、あなたの髪の色に似合うだろうし」 「ジュリーの髪の色にはどうだろう? その方が大事なんだ」 「そうね、彼女はダークな色を使った方がいいかもしれないわね。金髪の女性に勧めるのよりは、目立たないかもしれないけど」と彼女は断言した。 僕は、どう考えたらいいものか、迷っていた。 「これって、いつも磨ている必要があるの?」 サリーは笑い、「ええ、二日に一度は、あなたが磨き直さなきゃいけないわ。それとも、ここへ来るか」と答えた。 それで、僕は、突然、このトライアルをどうやって終えるのかを全然考えていなかったことに気がついた。 「これって、どのくらいもつものなの?」 「永遠に。あなたが、どれかを割ったりしなければね。これはとれないわ。普通に見えるように、ヤスリで削り落とすことなら、たぶん私にはできると思うけど。でも、なにか異常事態でもないかぎり、ベースの爪が伸びきるまでは、くっついてるはずよ。だいたい、3・4ヶ月ってとこかな。なにか問題でも?」 「ちょっと、待ってよ」 僕は大声で言った。 「これは、せいぜい3週間かそこら、つづけるだけなんだよ」 「落ち着いて。そんなこと、聞いてなかったのよ。いいわ、ちょっと考えてみるから。その間に、色を選んどいて。それで、終わることができるわ」 彼女は、さっき勧めていた鮮やかな赤を示し、僕はそれに、ぼんやりとうなずいていた。何ヶ月間か、とがった爪と暮らさなければいけないというこの最後のショックに心を奪われ、なにがなんだかわからなくなっていたからだ。 でも僕は、彼女が最初のコートを始めたときまでには、なんとか正気を取り戻し、思慮の足りない選択をしてしまったことに気づいた。僕の爪は、まるで成形されたルビーのように、テーブルランプの光の中で、暴力的なほど華麗な輝きをしていた。僕の指は、長くてエレガントに見えた。さらに、それは、美しくて女性的だと認めざるを得ないものだった。 このサロンに入ってきたとき、僕がどこかで感じていた高ぶりが、よみがえってきた。そして、じつは僕自身が、これをやりたいと思っていたんだということに、僕は気がついた。はたしてこの冒険が、ジュリーによって導かれたものなのかどうか、僕にはよくわからなくなっていた。僕の中にあるなにかが、僕をここへ導いてきたのかもしれないのだ。ほんとはしたかっのに、それに気づいていなかった、潜在意識かなにかが。 サリーは、何層かのコートを塗っていた。途中でよくわからなくなってしまったが、少なくとも4層はあるはずのそのコートを、ドライヤーと交互に施したのだ。僕がめんどくさがりさえしなければ、二日に一度は同じことをしなければならないのだということを思い出させながら、彼女は、そのテクニックを慎重に説明していった。 その美しい爪にかかった値段について、彼女が告げ、最後に、カウンターに行って、僕は代金を払うことになった。 僕は、手を波打つように回しながら、その爪がよく磨かれて、ハイライトにきらめいているのを見ていたが、その手で、なにかをしようとはしなかった。 で、僕が味わった最初の試練は、鼻がふたたびかゆくなり、それをかこうとして、爪で目を突きそうになったことだった。 「気をつけて」 サリーは、笑いながら言った。 「私は、お支払いをお願いしますって言ったのよ」 僕はうなずき、財布をとろうとした。以前からそれを入れている尻のポケットに手を伸ばしたまさにその時、僕は、危うく、最初の爪を失くしてしまうところだった。シルクの保護膜だけが、かろうじて、突然の災厄から僕を守ってくれたのだ。 でも、それで問題が解決したことにはならない。僕は、尻ポケットから財布を取り出すことができなかったのだ。財布のそばに慎重に指を滑り込ませてみたが、カールされたつけづめの先が、その柔らかな革に引っかかってしまうのだ。 「あ、その、どうもうまくいかないよ」と僕は口ごもりながら言った。 「えっ? ああ、なるほど」 彼女はくすくす笑って、自分の同じように長い爪を振って見せた。 やっとのことで、僕は、財布の下側に親指を差し入れることができた。で、もう一本のエレガントな指で反対側を押さえ、それを引き出した。 でも、その中から代金を正確に取り出すのも、さらなる大問題だった。果てしなく、いらいらするような時間の後、サリーは、やっと支払いを受け取ることができた。(いくらだったかは聞かないでほしいな。その長い絹のつけづめがいくらだったか知ったら、君はきっとショックを受けるよ。) 僕は、財布を元に戻すことをやめ、手で持っていくことにした。 サリーは、僕を外までエスコートし、僕が出ると、ドアを閉めた。 指に気をつけながら、つまり、爪が自分自身の脚に当たったりしないように気をつけながら、僕は、赤く輝くスポーツカーに向かって歩いた。 キーをしなければいけないどんな理由もなかったので、僕は、車のトップを開けたままで停めていた。僕は、ドアハンドルに爪をぶちあてないようにすることを学びながら、それに手を伸ばした。 その磨かれた爪の色と、僕の車の色がほとんど同じに見えることに驚いていた。もしかすると、これは、僕の潜在意識による選択だったのかもしれないなんて考えをめぐらせ、そして、何気なく、車のキーをとるために、ズボンに手をかけた。 そう。何気なくそれをとろうとした意思など、僕のぴったりしたジーンズのポケットの縁によって、当然のことのように拒絶されてしまった。それは、さっき、尻ポケットから財布をとろうとしたとき以上の拒絶だったのだ。 最初は、そのキーを取り出せそうな気がしなかったが、僕は、なんとかそれをやり遂げることができた。でも、その時、僕の磨かれた爪に、最初の傷がついていることに気がついたのだ。 くそ。これで15分はかかる。その爪のつやが、そんなにセンシティブだなんて、僕は知らなかったのだ。 ジュリーに、みすぼらしい僕の手を見せることなんてできない。それに、この爪を、それがひどく面倒であることの証拠にされてはかなわない。僕は、それに気づいて、さっきサリーが渡してくれた小瓶を取り出し、シートの上に置いた。 で、そのボトルを慎重に開けると、僕の長い爪は、まるで旗がなびくように、瓶とアプリケーターのまわりを動いた。そして、僕は削り落とされた部分をていねいに塗っていった。 サリーが、相当いいつや出し液を使っていることに感謝しなければならないだろう。それは境目なく、その傷をカバーしていた。最初のコートが乾くのを待って、二度目のを適量に塗り、注意深く瓶のふたをした後、僕は家に向かった。 慎重に。 我が家のドアまで歩くのに、僕は、財布とキーを持っていかなければならなかった。 ドアのカギは、開いたままになっていた。それで、僕は、僕のきれいな爪たちに、それ以上の損害を与えることなく、中に入ることができた。 僕は、ぴかぴか光っているルビーのハイライトに本気で夢中になりかけていた。 玄関のテーブルに持っていた物を置き、僕はジュリーを捜した。僕の爪は、僕を自意識過剰にし、歩いている間、爪が当たらないように、僕はずっと指を折り畳んでいた。 僕に気づくと同時に、ジュリーの視線は、他のなにも見えないように、閉じられた僕の手に注がれた。 「手を見せてよ」 彼女は、笑いながら要求した。 僕は、レストランの時と同じように、手のひらを上に向けて手をさし出した。 僕は、彼女の顔を見ていた。だから、僕の新しい爪が早く見たいという欲望にいらいらした彼女が、頭にきているのがわかった。僕がわざと手を裏返しにしていることに、彼女は気づいているわけだ。彼女は視線を上げ、僕のニヤニヤ顔を見た。 「なによぉ!」 怒って顔を赤らめている彼女を見て、僕は、さらに笑ってしまった。 彼女が僕の顔を見ている間に、僕は、手のひらをひっくり返した。 彼女は、その視野の外の動きに気づいたらしく、彼女の関心の的であるものに、矢のように視線を戻した。 「ワオ!」 彼女は息もできないように言った。 「あなた、ほんとによくやったわ」 「妻にとっていいことなんて、ひとつもないだろ」と、僕はじらした。 「きれいな指。長いし、エレガントだし。あなた、何とも感じないの」 「うむ。悪くはない。だけど、ポケットからキーを出すのは大変だったと、僕は認めざるを得ないね」 ジュリーは、笑った。 「賭けてもいいわ。サリーが手伝ってくれたんでしょ」 「そりゃ、無理だな。彼女の爪だって、僕のと同じくらい長いんだから」 「そうか。じゃ、これから私は、あなたのために財布を持ったり、あなたのものを運んだりしなきゃいけないわけね」 彼女そう言って、からかった。 「そんな必要はないさ」 僕は彼女の申し出を断った。 「確かに、僕らは、あれこれやることがあるだろう。でも、僕は財布を持ち歩く必要はない。たぶん、僕はこの爪で家の外へ出ることはないはずだ。僕が取りかかっている仕事に必要な時間はたくさんあるって、君が言ったのは、正しかったね」 「でも、この爪、こんなにきれいで、それに、こんなに女らしいのよ。あなたは、これを見せびらかすべきよ」 「僕のすべてであるジュリー」と僕は呼びかけた。 「これは、単なるテストなんだろ。君こそは、僕が見せびらかすべきただ一人の人間だよ」 「たぶん」と、彼女は笑った。 「この三週間の間、あなたがそれにがまんできればね」 「僕は、そうするつもりだけど」 「たぶんね」 彼女は、いたずらっぽい笑顔で繰り返した。 「さて」 彼女がつづけた。 「服を脱いで、お風呂に入って。あなたに着てもらう服の用意はできてるから」 「用意できてる? お風呂? 君はいったい、なに考えてるんだい」 僕は、疑念と膨れ上がってくる気がかりをごちゃ混ぜにして、聞いた。 「つまりね、女の服を着る準備ができてるってこと。それも、今問題にしてる不合理のひとつなんだから。もし、あなたが、それがいやだって言うんなら、テストは成り立たないわ」 そう言うと、彼女は、ベッドルームの方を指さし、その後、追い払うような仕草をした。その勝利感に満ちた笑いは、彼女が、このささやかなテストを支配するパワーを確立したことを示していた。 で、僕は、ベッドルームに行き、下着まで脱ぐはめになった。スポーツシャツを脱ぐのはむずかしくなかったし、ズボンのベルトをゆるめることにも成功した。でもそこで、最初のいらいらが襲ってきた。ジーンズのジッパーは、その試みをそこで停滞させた。そのいらいらや怒りは、この信じられないような爪たちを、この場で引きちぎりたいという思いを起こさせた。それでも、どうにかジッパーのタブをつかむことができて、僕は、それを引き下ろした。その後、いつものとおり、靴を脱いで、ソックスと下着姿で、バスルームまで行った。 「ノー、ノー、そうじゃないわよ」 彼女が、満足げに笑って言った。 「私は、『脱いで』って言ったのよ」 「いったい、なにがしたいって言うんだい」 僕は、答えを要求した。 「その見苦しい体毛を取り除こうと思って。あなたの新しい服には、似合わないものね。それに、ストッキングを伝線させちゃうかもわからないし。シャワーの下に立って」 僕は、シャワーの温度調節がすでにセットされ、動かなくなっているのに、ちょっと驚いたが、彼女が、剃刀ではなく、ピンクの缶を持っているのを見て、もっと驚いていた。 「それ、何なの?」 僕は不安が膨らんでくる中で、きいた。 「除毛剤よ。さあ、立ったまま、腕を出して」 彼女は、首から始めて、僕の体の至る所に、その缶のクリームを惜しげもなく塗った。ただし、もろに男そのものである、その小さなエリアを除いてだが。 彼女が、そのクリームを見えない場所まで広げるために、僕のコックとボールを持ち上げたときの驚きの後にやって来た一撃は受け入れがたいほどこたえ、かつ完全に打ちのめされた。それでも、僕は、僕の魅惑的な爪たちが、すごくエキサイティングなものだと感じて、眺めていたのだ。 ジュリーはタイマーを20分にセットし、僕にそのまま立っているように言って、出ていった。 20分は、まるで終わりがないような感じで、延々と続いていた。タイマーがなければ、僕は、それを何時間かであると言っていただろう。 5分もすると、僕は、腕に疲れを感じ始めた。でも、10分後くらいからはじまった最悪の事態は、かゆみだった。その泡が皮膚をむずむずさせる感じで、僕の神経が異常な感覚の中で爆発したように、僕は体を震わせたり、痙攣させたりした。僕は、大声で叫びギブ・アップしそうになるのを避けるために、強情さを総動員して、タイマーがゆっくりと進んでいくのを見ているしかなかったのだ。ジュリーが歩きながら戻ってくるまで。 「もういいわね。体をすすいで」と彼女は言った。 凍えたりすることのないだけ、水温が上昇するまで、僕は、そのシャワーを直接浴びるのを避けようと、外へ出ていた。(かろうじて凍らない程度だっただけで、その水は、本当に冷たかったのだ。)そして、やっと、その祝福の救済の中に入ることができた。 ジュリーの優しい手と、目の粗い部類のスポンジが、体から、ちくちくする感じの泡を洗い流すのを助けてくれた。 僕は、ごしごし洗うことによるかゆみからの救済と、そして、僕がなめらかなでセンシティブな肌をしていることをいかにわかっていなかったを教えてくれたジュリーに、感謝していた。 ジュリーは、すべての泡が落ちたのを確かめた後、僕にシャワーから出るように言った。彼女は厚くてソフトなタオルで僕の体を拭き、そして、パウダーのパフに手を伸ばした。彼女がなにをするのかわかる前に、ソフトでいい匂いのする粉の雲が、僕の輝く体を包んだ。 「なにをしたの?」 僕がきくと、また、くすぐったいものが、体にふれた。 「あの化学薬品の後で、あなたの皮膚は、このソフトなパウダーを必要としてるのよ。ねえ、あなたって、ほんとにきれいな肌をしてるのね。これって、あなたの家系ね。そのふさふさでソフトな髪と同じで」 僕の父親と、両方の祖父には、死ぬまで濃い髪があった。さらに、僕の女性の祖先たちも、ボリュームある完全な髪をしていた。女性にだって、はげの遺伝子はある。女性の場合は、スポットで髪が落ちるのではなく、髪をまばらにしてしまう。ともかく、はげは、僕が心配しなくてもよいことのひとつだった。僕は、髪の傷みとかはには注意を払わず、不都合がない程度に散髪していたが、どっちにしても、特別気をつける必要はないのだ。実際、僕はいつも、そんなことは、とるにたらない、関心を抱く価値のないことだと見なしていた。 バスルームの鏡が曇っていたので、僕は、僕の体がほんとのところどんなふうなのか、見ることができなかった。腕や脚や、それに胸毛がなくなったと言っても、もともと、それは、そんなに目立ってはいなかったのだ。 でも、僕が、本気で自分の体を調べようとする前に、僕は、ジュリーにベッドルームに連れて行かれてしまった。 ベッドの上には、さまざまなサイズや形の箱や袋が、びっくりするくらい並べられていた。むろん、これまで僕は、こんなに多くの衣服を必要としなかった。それらは、まだ閉じたままだったので、彼女がなにをどうしようとしているのか、わからなかった。 「オーケー、ミスター『まとも』。あなたが、私に、服装のことでうるさく言ってたことは覚えてるわね?」 ジュリーは、いよいよ攻撃を開始したようだ。 「ちょっと待ってよ、ハニー。僕はべつにうるさく言ってたわけじゃなくて、提案してただけじゃない」 僕は、弱々しい反撃に出た。 「一度なら、提案。何度も言うのは、小言よ。あなたは、小言を言いつづけてたわ」 彼女は、援軍を投入した。 「もし、君が、僕の提案をちゃんと考えてくれたなら、それが小言になることもなかったわけだろ」 僕は、不機嫌の混乱の中に退却した。 彼女は、笑いながら、最初の包みを手に取った。 「じつは、私って、あなたに寛大になろうと思ってるのね。あなたの『提案』について、あなたがあんまりよく知らない部分を、手伝ってあげようって思ってるの。体から除毛をしたみたいにね。たとえば、ストッキングをはくときは、ひっばっちゃいけないとか。もうひとつ別の例で言ってみようか。これは、キャミソールって呼ばれるものね。で、これは、あなたのきれいでなめらかな肌が、コルセットにつねられるのを防ぐ役割を果たす、とかね」 ジュリーは、かすかに光っているナイロン製の布を取り出した。それは、青みがかったピンクに染められ、繊細なレースで縁取られていた。 彼女は、それをまとめて、僕の腕に通し、そして、上体の上に、そっとたらしかけた。それは、優しく波打ちながらたれ下がり、空気より軽くて、ひんやりとしてなめらかだった。僕の感覚は、困惑しているにもかかわらず、薄い素材の官能的な感触のせいで、感銘と、うれしさと、歓喜を感じ、そこから抜け出せなくなってしまった。ジュリーが、それをフィットさせるため、ストラップの調節をしている間、僕は、僕の手が、ウエストのあたりで、すべすべした布をなでているのに気がついた。なんでそんなことをするのか、自分でもよくわからなかったが。 ジュリーは黙っていたが、ずっとつづいているその笑い顔からは、勝ち誇ったような感じが消え、なんだか不思議な表情に満ちていた。でも、僕自身もじゅうぶんに取り乱していたから、それを深く考えることなどできなかった。 「うんと、じゃあ、次のアイテムね」 彼女は、僕の夢想を中断した。 二つ目の包みは、雪のように白いコルセットだった。そこには、すでに僕が着せられているキャミソールとマッチする繊細なピンクのレースが施されていた。 僕は、一般的な分類方法で、その下着を認識していた。でも、僕がジュリーにそれをつけるように主張したとき、体系のコントロールのために、いったいどれくらい多くのスタイルの下着があるのか、僕は理解していなかったようだ。 彼女は、僕のために選んだものについての説明をつづけた。 「これはトラディショナルなコルセットで、ビクトリアンスタイルっていうの。ブラジャーが出てきて以来、今じゃ、時代遅れになっちゃってんるんだけど。いちばん最近の体型コントロールの下着はバスケスとかメリー・ウィドウっていうんだけど、ブラのカップがいっしょになってるのね。でも、実際には、それは必要ないでしょ」 彼女は、そうからかった。 その表面の後ろ側には、編み上げひもがついていた。そして、前側には、カバーパネルに隠されてフックが並んでいた。ジュリーは、手早くフックをはずすと、僕のウエストに、それを巻きつけた。 彼女がふたたびフックをかけ始めたとき、この賭けに勝つことはできないまでも、大負けにはならなそうだと感じた。 「そんなに、気分が悪いもんでもないよ」 彼女が最後のフックを締めた終えたところで、僕はそうコメントした。 「僕が、君に、これを着てみろよって言った時は、こんなに楽勝なものだなんて、知らなかったけどね」 どういうわけか、この言葉に、彼女は、歌うように、きらめくように、めいっぱい笑った。最初、僕はそれに驚いたが、彼女の浮かれ笑いが、速いテンポのげらげら笑いへとつづいたていったとき、僕は、ちょっと不安になってきた。 なにが、そんなに、おかしいんだよ。 彼女は、その大笑いを、なんとか普通の笑い方にコントロールしようと、僕の後ろを歩きまわり、やっと、くすくす笑出る程度にまで押さえることに成功した。 「じゃ、始めるからね。ベッドの柱につかまって」 僕は、彼女の方を見ようと、振り向きかけた。と、彼女は、僕の肩をつかみ、ベッドの方に向かせたままで、腕を持ち上げさせるように力を加えた。 僕はまた、肩越しに彼女を見ようとしたが、コルセットの編み上げ部分にどれくらいの幅があったかを思い出した時には、手がベッドの支柱に達していた。 彼女は、そこをすべて絞めようとしているわけではないだろう。 きっと、そうじゃない! ‥‥いや、そうだった! 強い力で、彼女は、コルセットのひもを引っ張りはじめた。 後ろに引っ張られそうになる反射作用で、僕の手は、ベッドの支柱をしっかりとつかんでいた。そして、僕は、文句を言い始めた。ところが、彼女は、最初のひとことで、僕を打ちのめした。 「大きく息をしないで。これがコルセットのほんとの意味なのよ。あなた、それがわかって、まだ、コルセットにこだわる立場がとれる?」 彼女の声に、勝利の響きが戻ってきたのを僕は聞いた。そして、それがあっという間の条件反射となって、僕のある反応を誘発したのだ。 彼女から感じる勝利感は、僕に、いつもの自己主張のための頑固さを呼び覚まし、僕は、彼女が繰り出すあらゆる仕掛けに対応できるところを見せてやろうという気になっていた。 僕は、口を閉じ、無言の決意で、この最大の侮辱を乗り切ることに決めた。 とはいえ、彼女はトップの近くでひもを結びはじめ、僕の肺からたくさんの息を絞りとっていたから、すでにしゃべるのはむずかしかったのだが。 彼女が僕のウエストを徹底的に締め上げるまでには、まだ、6対だか8対だかのひものたるみを引っぱり出すための穴があるはずだ。 僕は気持ちを落ち着かせるために、大きく息を吸い込もうとした。でも、彼女がまたひもを引っ張ったので、その息は、中途半端になって、かえってのどをつまらせた。すそまで達するには、まだ、驚くほど長い道のりだ。 僕は、僕のウエストがどれくらい細くなっているのか気になって、下を見た。でも、そこには胸しか見えなかった。かろうじて、コルセットのいちばん上がどのあたりにあるのかはわかるのだが、それは、きつく締められているせいで、その上の肉がもりあがって、まるでバストのふくらみのようになっているからだった。彼女がウエストの一番下のひもを締め、そして、ふたたびいちばん上を締め直そうとしたときには、僕は、降伏を宣言しようとしていた。つまり、妥協して、どっちかと言えば僕の方がまちがっていたと認めようと思ったわけだ。 僕は、もうめいっぱいきつくしまっていると思ったひもを、彼女の指が、さらにかなりの長さ引き出したのを感じ、ほんとに驚いてしまった。 その作業は、やっとひもの上半分を済ませたところだ。彼女は、僕の肋骨の下半分に着手した。そして、そのすでにぱんぱんのコルセットのしまりを、さらに目に見えるほどきつくすることに成功した。 2度目のしぼりが終わり、やっと、彼女は引き下がった。 「まあ、今のところは、こんなもんかな」 「今の‥‥、ところ?」 圧迫された肺になんとか空気を呼び入れようと、僕はちょっとあえぎながら言った。 「うん。あと一時間くらいやってれば、もうちょっとましな感じになると思うけど」 「じょ、冗談じゃないよ。もう、めいっぱいキツいよ」 僕は、泣き言を言った。 と、彼女は「コルセットって、そういうもんよ」と主張した。 「まあ、あなたが、女性のことをもう少し理解して言葉を使ってたとしたら、あなたの求めることを実現するために、ウエスト・シンチャーとかボディ・ブリーファーっていうのを着けるという手もあったわ。そうすれば、ほぼ同じくらいしまった体を手に入れて、しかも、サテンと硬い骨の代わりに使われる現代的な伸縮性ある素材に感謝することになったはずよ。だけど、あなたはいつだって、そんなこと理解する必要ないほど、すごくまともだったわけよね」 僕は、なにも反論できなかった。 彼女が不満を抱いてると語った昼食から始まった、このセルフ・アセスメントに、例証が追加されたわけだ。僕は、すべてについて自分の方がまともじゃなかったんだと思い始めていた。でも、それは、呼吸の欠如による思考不全のせいかもしれない。 僕がそんな考えにとらわれていると、彼女は、小さなパッケージにとりかかった。長くて薄いストッキングを取り出す、かすかな音がした。 音に目を向けると、彼女は、それをベッドの上に置き、今度は、ひとにぎりほどの、端にクリップのついたストラップのかたまりをとりだした。ちょっとして、僕は、それがガーターだとわかった。 彼女が、コルセットのすそのフックに、それらを装着しはじめたので、僕は、それをさえぎって聞いた。 「ちょっと待ってよ。下着は、はかないの?」 「あなた、前に、私にそうしてくれってたのんだこと、ない?」 彼女は、すごくいたずらっぽいにやにや笑いで応じた。 「ああ、そうか。だけど、ずっと昔に、一回だけだよ。で、君は、馬鹿なこと言わないでって言った」 僕は防戦に出た。 ジュリーはくすくす笑って、うなずいた。 「そのとおりよ。下履きはちゃんと用意してあるわ。男物のパンツとおんなじみたいだけど、これまであなたがはいてたのとはちがうはき方をするの。ガーターの上にはくのよ。そうしないと、トイレに行くとき困るでしょ。急いで脱がなきゃいけないのに、まずガーターをはずさなきゃいけなくなるものね」 僕の可愛いいじめっ子は、含み笑いしながら、片方のストッキングを上手に丸めると、僕の右足の前にひざまずいた。 僕は、自分でやると言おうかと思った。でも、彼女は、明らかに、彼女の実物大のバーピー人形に服を着せるのを楽しんでいるのだ。それに、どのみち、その地獄のコルセットのせいで、体をそこまで折り曲げるなんて、できそうもなかった。 僕のすべすべで艶やかな脚を、その光沢のある生地が、なめらかに滑り上がって来る感触は、さっきのキャミソールを思い出させ、僕はまた、ちょっと興奮しはじめた。強烈なコルセットのせいで、まだ完全な勃起には遠くおよばないほど萎んでいる僕のコックは、両脚の間で目覚め、大きくなりはじめていた。ジュリーは、それに気づいたようだが、なにも言わなかった。でも、彼女は口の中で笑い、からかうような視線で僕を見た。そして、ストッキングの最初の一本を、三つのガーターにとめた。僕の神経は、だんだんそこに集中していった。そして、彼女は、2本目にかかった。 僕が自慢できるのは、通常、まわりで起こっていることを、きちんと把握しているということだ。まあ、サイバースペースに深入りしている時は除いてという話だが。そういうときは、僕にとって他の世界なんて存在しないんだから。でも、そんなときは、サイバースペースの中で、道に迷わないように、最大限の注意を払っていることにかわりはない。 でも、そのストッキングが落ち着いた色で、エレガントで、そしてなんと、後ろにシームのあるやつだということに僕がやっと気づいたのは、その2本目の時だった。僕が気づかないうちに、彼女は、1本目のシームを注意深くまっすぐに直していたようだ。そして、今、2本目のシームも、そうしようとしている。 僕の認識力に関するプライドは崩壊し、僕は体の奥からの吐き気に襲われた。 僕は、ちょっと身震いし、自分を落ち着かせるためにベッドの柱をつかんだ。 「だいじょぶ?」 彼女は心配そうにきいた。 「あのさ」 僕は、小さな声で言った。 「ずいぶん速くことが運んでるって気はするんだけど、でも‥‥、あとどのくらいかかるのかな?」 「あと、すこしだけね」と彼女は約束した。 彼女は、他の包みを開け、派手で刺激的な赤の、ひもが絡み合ったような固まりをとり出した。彼女がほぐして広げると、それは、小さな三角形の部分以外、細い革ひもで編まれた下着だった。 彼女はまた、僕の足をあげさせると、その細い革ひものショーツをストッキングで覆われた脚の上で引っ張り上げた。 「あなた、これ着けたくない? というか、私に着けさせたくない?」 彼女は、まだちょっと心配そうに、優しく尋ねた。 「いいよ、着けてみるよ」と、僕は言っていた。 僕の長い不器用な爪でつついてみたけれど、僕のコックは、まだそんなに硬くはなっていなかった。で、僕は、それを股の間に挟み、その上からその下着を引き上げて、僕の男らしい部分(どこが男らしいって言うんだ!)をカバーした。 その細い革ひもは、僕のお尻の丸みの上で、かろうじてとまった。滑り落ちる(そうなってくれと、僕は思ったが)のを防ぐには、とりあえずだいじょぶなようだ。まだ、僕のお尻は、脇の下から腰まであるコルセットのすそにしまい込まれるくらいには、高い位置にある。僕は、彼女が言っていたガーターの上にその下着をはく必要性がよくわかった。もし、いつも、下着がコルセットの罠にかかっていたら、僕は、それを脱ぐことができないだろう。その小さな下着は、奇妙なものだけど、それを自分が着けているということが、その奇妙さを和らげていた。それをうまく扱えないこともないだろう。そう思って、僕はなんとか立ち直り、新たな自信とともにジュリーに笑いかけた。 彼女は、安心したように笑い返した。いつもの、光の速さのようなスピードで、彼女の感情は変化し、いい気分になったようだ。 「オーケー、だいたい終わったわ」と彼女は僕に言った。 「あと必要なものは、ハイヒールと、スカートと、ブラウスよ」 僕にはなじみのない言葉たちが、新たな負担となって、僕の頭の中で鳴り響いた。 僕は、慎重に、コルセットが許してくれるかぎりの息を吸い込み、僕の感覚に最後に加えられる攻撃を待った。 まず、全体にレースとラッフルの施された、途方もなく女っぽいブラウスだった。これも、「もっと女らしいかっこをしたら」という僕の「提案」に沿ったものだろう。 僕は、ため息(といったって、ほんとのため息なんてつけない状態だけど)をつき、それに腕を通した。 それは、後ろ側にやはりラッフルで被われたファスナーがあり、スタンドカラーになっているものだった。 僕はネクタイをしなくていいように、わざわざ自宅でできる仕事を選んだのだというのに、今や、首のまわりは、より多くのもので縛られることになった。 「こんなに派手な色じゃないと、だめなの?」と、僕はこぼしていた。 彼女はくすくす笑いながら言った。 「たしかに、赤すぎるかもしれないわね。でも、赤は、あなたの色でしょ。その爪にはよく合ってるわ。それに、女は男より派手な色を着るものよ。これこそ、あなたが私に注文してたような、女っぽいかわいらしさってもんでしょ。あなた、それを手に入れたのよ」 だれかさんは、その黒いスカートに、生地の量より材質のよさを求めようと決めたようだった。それは、いつもジュリーが着てるものより、あきらかに短かった。(僕は、いつも、ジュリーに、脚がきれいなんだから、もっと見せたらとたきつけてたんだ。) 彼女が、スカートを引っ張り上げると、そのすそから、僕の膝がふたたび顔を出し、それからさらに、腿の大部分が出てしまった。 最後に、彼女は後ろのジッパーを上げ、ひとつだけのボタンをとめた。 「いいわね。サイズもぴったり。もっと小さいのでもよかったかもしれない。コルセットさえあれば、あなた、7号が着れるわ。賭けてもいい。私たち、服を共有できるわよ。ところで、これって、単純な綿とポリエステルの混紡だけど、スリップを着なくていいように、裏地がついてるのよ」 彼女は、そう説明した。 神様の小さな好意に感謝しよう。 「あっ、ベルトしなきゃいけないのを忘れてた」と彼女は声を上げた。 そして、幅が広くて伸び縮みする、金色に輝くうろこ模様のベルトを取り出した。 彼女は、それを、僕のウエストに手早く巻きつけた。 そのベルトの存在を、まるで感じることができなかった。僕のウエストはもうそうとう圧縮されていたから、それは、僕のまわりでちょっと伸びただけだったんだ。 どっちにしてもこれは、いいことにちがいない。 僕は、こんなベルトなんて要らないんじゃないかなどと考えていて、ジュリーが、明らかに靴箱だと思われる次の包みの方に近づいたのに気づかなかった。 彼女が次のことを始めようとしたとき、僕は、ついに、こんなナンセンスなことにストップを言わなければならなくなった。 「だめだよ! 無理だ! そんな靴、はけるわけない」 僕は、そう宣言した。 それは、つま先が開いたサンダルみたいなものだった。1インチ幅くらいの真っ赤なストラップが、サイドについていて、甲の上の真ん中あたりに結び目がつくられていた。かかとの側には、細くて長いストラップがあって、それはどうやら足首のまわりにまわして結ぶものらしいということが、僕にもすぐわかった。 彼女がどうして単純なつっかけのつくりを選ばなかったか、よくわからなかったが、そのデザインは、そんなに悪いものではない。 しかし、そのかかとだけは、非現実的だった。 ストラップと同じ明るい赤のそのヒールは、少なくとも、5インチか、それより高いにちがいない。 「それは、あんまりにも高すぎるよ。まともじゃない」 僕はうっかり口走っていた。 その言葉が口から出たとたん、僕は、それを元に戻せないかと思った。 僕は自分にとってのまともさを言ったのであって、彼女にその言葉尻をとられることで、やりこめられたくはないと思った。 でも、もう遅かった。そして、最悪だった。例のいらつくほどの勝利の笑いが、彼女の顔にふたたび浮かんだのだ。 「まともじゃないって?」 彼女は、やはり、その言葉に乗ってきた。 「あなた、この靴がまともじゃないって言いたいわけね。覚えといてほしいんだけど、このヒールは、あなたがこの前文句を言ったとき、私が履いてたのより、せいぜい1インチ高いだけなのよ。あなたが主張してたサイズは、たった1インチ高いだけじゃ不十分で、もっと高いのだったわよね。どう? この靴は、とってもまともでしょ」 僕は、完全に、はめられた。これ以上言葉を継いだところでどうなるものでもなかったが、でも、そのがまんならないほど呪われたにやにや笑いは、僕に、それをさせた。 僕のばかばかしい負けん気は、一生直らないほどやっかいな性格をつくり出しているようだ。僕は、居直った。 「ああ、そうかい、わかったよ。で、その仕掛けは、どこに向かってるんだい?」 僕は、それを取り上げるために、体を曲げようとした。でも、ばかばかしいコルセットは、僕をかがませてくれず、それに手をかけることはできなかった。 彼女が、それを取り上げ、僕にはかせるために宙に浮かせた。 ストッキングに包まれたつま先は、前のストラップに、すんなりと滑り込んだ。彼女は、細い方のストラップを、よくわからない巻き方で、僕の脚に巻きつけた。そのストラップは、足首の細いポイントに、うまくなじんだ。彼女は、ストラップの小さなバックルをとめると、僕に、もう片方の足を上げるよう合図した。 そう。その時点まで、僕は、かかとの高いその靴にまったく体重をかけていなかった。 彼女がもう一方の足を上げる必要をはっきりさせたとき、僕は、お尻をちょっと移動しようとした。でも、そうではなくて、階段を登るようにするのが正しいということがわかった。 僕は、つま先とかかとの間で、なんとかバランスのとれるところを見つけようと、体を前後させた。ベッドの柱にしっかりつかまって、足を安定させようとすると、これまで感じたことのない筋肉の緊張を感じた。そのことで、僕は、ジュリーがもう一方の靴をとめ終わるまで、それに気づかなかった。 そしてすぐに、僕は、かかとには少ししか力が掛からず、つま先で、体重の大部分を支えていることがわかった。 それは、数インチの自動車のホイールベースの上に乗っているようなもので、まだしも、玉乗りしてるよりはましという程度のものだった。 脚の筋肉に力が入っていることはまた、足の裏の力が入らない状態にもしていた。 僕は、おそるおそる、もう片方の脚に体重を移し、それから、ゆっくりとベッドの支柱から手を離した。 「ほら、そんなに悪くはないでしょ」と、ジュリーはからかった。 「なんとかなりそうだよ」 転倒の危機からは免れたけれど、まだよろめきながら、僕はつぶやいた。 「どんな感じか見たいでしょ」 ジュリーは、そう言いながら、僕が姿見の方に向き直れるように、どいてくれた。 「うそぉ‥‥」 そのそびえ立つようなハイヒールによって引き起こされたパニックが納まり、僕は、思わず口走っていた。 まず気持ちの高ぶりがやってきて、そのあとで、自分の今見ているものがなんなのかがわかってきた。そして僕は、こんな僕が見たかったんだと思った。 危険なくらいに急いで、僕は、体全体を鏡に向けて回転させた。でも、少しのぐらつきだけで僕は持ちこたえ、その不器用でぎこちないバランスを保つことができた。 僕は、鏡の中に全身を映すことができるくらいの距離をとっていた。でも、すべてのものがその瞬間、明瞭に認識できた。 まず、僕の目に飛び込んできたのは、そのばかばかしい――もう、けっしてばかばかしいなんて思えない――靴だった。それは、僕の足を、優美なアーチ型に持ち上げ、細いストラップは、足首を、細くてデリケートに見せていた。 深い色のストッキングは、僕の目を、輝かしく、長く、なめらかな、まるで彫刻のような脚へと導き、そして、短くて、深い色のスカートに達しさせた。そのスカートは、僕のものだとは信じられないくらいに細いウエストに食い込んでいた。 僕の視線が、そのほっそりと可憐なウエストに迎えられ、釘づけになったとき、僕は、そのくだらないと思えた金ベルトの、本当の価値がわかった。 きらめいている爪は、周囲から明るい光を集め、その手は、足と同じように、エレガントで女らしい。僕の手は、かわいいとは言えないかもしれないけれど、その長くて魅力的な爪を持つことで、ほっそりと美しく見えた。 赤く輝くブラウスは、胸の上のあたりと袖につけらたラッフルで炸裂し、それを取り囲む空気のようなレースは、本当はないはずの胸によって、明らかにふくらんでいる。ブラウスは体の線を浮き立たせるというのも、曖昧にするというのも、正しくはないようだ。実際、胸郭を絞り上げているコルセットのせいで、僕の胸には、ちょっとしたふくらみがあった。そのビクトリアスタイルの矯正下着は、胸がないなどと思わせないようにしていた。 いや、それだけじゃない。その信じられないようなウエストとの対比で、そこには、明らかにバストがある気がするのだ。 鏡の中に僕が見ているイメージは、うろたえるような驚きと、わけのわからない高ぶりで、僕の怒りを葬り去ってしまったようだ。そして、僕は理解した。僕が、それを喜んでいることを。 もし、僕の視線が、そこで止まっていたなら、それでオーケーだったのかもしれない。でも、その試験を完了するために、僕の視線は、移動せざるを得なかった。そして、僕は、顔を見た。 ジュリーは、服に関する僕の提案には抵抗したが、美しい顔と輝く髪については、いつも自慢にしていた。僕らが知り合う以前から、彼女は、化粧に関して、芸術家のように熟練した微妙な技を身につけていたし、また、いつも、その黒髪の流れに気を配っていた。 ほめ言葉以外で、彼女の化粧や髪について、僕がコメントしたのは、たった一度しかない。その唯一の不平は、最初の頃一度だけ、彼女がカーラーをつけたままでベッドに入ってきたときのものだった。僕は、ほんとにそれが必要なのかときき、彼女は、素っ気なく「そうよ」と答えたのだ。でも、その夜のあと、彼女は、朝、ホットローラーを使うようになったのに、僕は気づいた。それ以来、彼女はずっとそうしている。 いずれにしても、僕は、いつだって、ナチュラルな美しさを最大限に生かす化粧のしかたが大好きだったし、滝のように流れる彼女の輝く黒髪が大好きだったのだ。だから、そのどちらにも、僕は「文句」なんて言ったことがなかった。 で、その結果、彼女は、僕の顔と髪にはなんにもせず、僕が鏡の中に見たものは、輝くほど美しく、驚くほど女っぽいボディの上の、男の顔だったわけだ。 実際、それは正しくない。 僕の顔はソフトなつくりで、ひげもきれいに剃られていたから、その姿は、むしろ、女性のボディに少年の顔が乗っているという感じに見える。それは、絶望的に馬鹿みたいで、悲しいくらい不調和だった。 ジュリーは、すでに、彼女の成長したバーピー人形に服を着せながら、その姿を見ていたはずだ。だから、僕が鏡の姿を見て考えたのと同じような思いで、この顔を見ているにちがいない。 彼女自信がつくったこの体は、びっくりするくらいすばらしいもので、それは大きな喜びとなるはずだ。そして、その眺めが、僕の頭部まで持ち上げられたとき、それは、苦痛と言ってもいいほどの失望にかわるはずだ。 僕は、彼女が、僕の言った言葉を訂正させるために導入したショックの波に、こんなに翻弄されているのだ。そして、感情の洪水によるあらゆる思考が白日の下にさらされ、僕は、次から次へ打ちのめされているのだ。 「ジェイ、どうかしたの?」 彼女が心配そうに言った。 「あ、いや、その、なんでもないよ」 僕は否定したが、顔には、それがウソだと書かれていたはずだ。 「なにも言わないで。いつの頃からかわからないけど、僕には、君が不幸なのも、怒っているのも、いらいらしてるのも、失望してるのも、無性に悲しいと感じているのも、すべて、見えなくなってたみたいだ。今、僕はどうすればいいんだろう?」 鏡から視線を逸らし、愛する妻を見つめながら、僕は泣いてたんだ。彼女の心配そうな顔からは、勝利の笑いは消え去っていた。 事実、僕は、僕がどうしたらいいのか、わからなくなっていた。 僕は、本当に女性になりたかったわけじゃないだろ? なのに、どうして、僕は、自分の顔を体と同じように変えたいなんて思ってるんだ? どうして僕は、それを知ったときはあんなにいやだったコルセットで、ウエストが細くて、明確に女っぽくなったことを自慢したいような気分になってるんだ? 僕は、この衣裳が、嫌いだったんじゃないのか? 妻との議論に勝つために、秘かに、それらをがまんしてただけのはずだ。 そうじゃないのか? 僕の目の奥のどうしようもないほどの混乱は、当然、表情にも現れ、ジュリーを不安の中に置き去りにしていた。 僕は、自問自答に疲れ、慣れないヒールのせいで、ちょっとゆれながら、その場に立ちつくしていた。 ついに、彼女が沈黙をやぶり、言った。 「あのね、もうじゅうぶんにやったと思うの。その衣裳、脱ぎましょ」 「そうじやないんだ!」 僕は叫んでいた。理性的な考えなんてできないくらいわけがわからなくて、それがそのまま表に出たのだ。 「なに?」 ジュリーは、驚いてきいた。 僕の中から無理やり絞り出されたそのひとことが、動かなくなっていた僕のシステムをリブートし、僕はふたたび、話すことができるようになった。 「今やってることのすべてが、なんのためだったのか、わからなくなったんだ。なのにさ、僕の中のなにかが、この服に興奮してるんだ。僕は、それが不安なのに、まだ今は、これを脱ぎたくないと思ってるんだ」 僕はそう説明した。僕の思考は、次第に明瞭になっていくようだった。 「今やってることは、もう、全然、僕の手に負えなくなっちゃったみたいだ。僕らのささやかなゲームは、なんだか、めちゃくちゃリアルになってきちゃってる。もう、自分がコントロールできないんだ。なんとか自分を取り戻さなきゃいけない。でも、君が僕にしたことを、あの鏡で見たとき、僕は、まるで爆発したみたいに、うれしくなったんだ。こういう服を着ることは、これまでそんなものがあるなんて思わなかった、僕の奥の方の欲望や欲求につながってる気がするんだ。君は、僕のこと、ゲイなんだと思う?」 「だめよ。そんなふうに思っちゃいけない」と、彼女は僕を安心させた。 「ほとんどのクロス・ドレッサーは、ヘテロセクシャルだって、どこかで読んだことがあるわ。あなたは、私と同じように、まちがいなく、結婚生活をエンジョイしてきたじゃない。実際の話、人間は誰でも、少しずつ、男の要素と女の要素を持ってるのよ。100パーセントの男も、100パーセントの女も、いないの。たぶんあなたは、二人が思ってたより、女性らしさをちょっと多く持ってて、それを抑圧してきたんだと思うわ」 溢れてきた気持ちが、彼女の言葉で泡立った。 「たぶんね、今、あなたは女らしさをちょっと多く持ってるてことを理解する必要があるって言ったとき、私は、私がこれまで考えてた答えより、正解に近づいたんだと思うわ。あなたに、私のことを、もっと理解してほしいっていうだけじゃ足りないのよね。あなたに、もっと、あなた自身をも理解してほしいの」 ジュリーは、さらにつつけた。 「だけど、さっき、あなたがなぜあんなに悲しそうだったのか、私、それがよくわからないの。あなたが混乱してたのは理解できるの。でも、私が今、混乱してるのは、あなたの中で、なにかがつづいてて、どうもそれが、あなたにとってすごくよくないことにちがいないってこと。なにがそんなに悲しいの?」 ショックな状況が吸収されていくことで、僕は、もつれて狂った思考に対するコントロールを少し取り戻していた。そして、彼女の言葉は、僕が少しずつ状況を整理していく助けになった。 彼女の問いかけは、僕の中でくすぶっている、単純で明解な感情をかりたてるのに十分なものだった。 当惑。 僕は、頬を火にあぶられたように赤くし、肩をすくめ、僕のエレガントな靴を見つめていた。 「ねえ、なにが問題なのよ?」 僕が答えないので、彼女は、怒ったようにきいた。 僕は、自分を落ち着かせるために、深く息をすいこもうとした。でも、それは、コルセットの範囲内で、心地悪くはない程度にというものだった。僕は、まだ、少ない一口の空気さえ、うまく操れないのだ。 それで、そのかわりに、僕は目を閉じて、精神的な息をつき、それから、僕が愛する美しい女性を見た。 「僕は、女性のボディの上に男の顔があるのに失望したんだ。それが、かわいい女性の顔に変わってほしいって思った。それに、髪の毛も。長くてきれいな髪がほしかった。ちょうど君みたいな」 僕は、ついに白状してしまった。 それはあからさまになった。 今、彼女はなにを考えているんだろう? 「おお、ジェイ」 彼女は、目に涙をためて泣いていた。 僕は、あることを知った。 僕は、すばらしい結婚生活を吹き飛ばしてしまったのだ。 そもそも、こんなばかばかしいテストに、同意すべきじゃなかったのだ。 わがままなところを捨てて、彼女のありのままを、ゴージャスな妻だと認めるべきだった。 僕はもっと‥‥。 ジュリーは、彼女の腕で僕を包み込み、きつく抱きしめることで、僕のメンタルな自己批判を中断させた。彼女は、その地獄の‥‥魔法のコルセットを通しても感じ取れるくらいきつく、僕を抱いていた。彼女は、目に涙ためて僕を見上げていた。でも、その目の中にあるは、嫌悪や怒りでなく、輝くような愛だった。 「私の大事な、ジェイ」 彼女は、ささやいていた。僕の‥‥バストに。 「あなたがそんなふうに感じてくれることを、私がどれほど望んでいたか、想像できないでしょ? あなたが、そんなふうにしたいって言ってくれたら、どんなにいいかって、私ずっと思ってたの。私がこの馬鹿みたいなテストをやったのは、あなたをもっと重要なテストに誘いたいからだったの。ファッションなんかについてじゃなく、私たちの関係についての。それは、あなたと結婚してからのこの数年、ううん、実際にはもっと前から、あなたに秘密にしつづけてきたことなの。私、その顔と体型なら、あなたを、女性、それも、美人の女性に見えるようにできるって、ずっと思ってたわ。私は、夢の中では、いつも女性とメイクラブしてるの。それが、私のファンタジー。でも、その女性は、女物の服を脱ぐと、男性に変わるのよ。で、今、あなたは、まさにそんな男性だったことがわかったの。このテストで、私があなたに女物の服を着せたのは、あなたが、それについてだけ文句を言ったから。でも、あなたは、私の顔や髪にはなにも不平を言わなかったから、私には、それをする理由が見つからなかったの。だけど、私は、あなたが自分の方から、この変身を完了させたいって思ってくれることを期待してたの。やってくれる? ほんとに、やってもいいの?」 そんな彼女を抱いて支えていることで、僕は、この日ずっと失くしたままだった精神の安定を得ることができた。その信じられないようなヒールだけがたよりの身体の安定については、まあ、言わないでおくにしても。 僕の体に触れている彼女の体の温かさ、髪のソフトな匂い、彼女が見せた優しい感情の動き、それらのものが、これまでの結婚生活の記憶といっしょになり、混ざり合って、夜の中に溶けた。永遠の愛でこの新しい経験を支え、コンビネーションを築き上げたことは、ただ、男と女の肉体的な魅力によるものよりも、ずっと大事なものに思えた。 この奇妙な冒険の結果、僕らがどこにたどり着こうと、僕にとって、彼女は、ずっとあてにできる存在であることがよくわかった。そして、そう思えたことが、僕の心の中に黒い雲のように潜みつづけた怖れを追い払った。混乱の霧も、その怖れとともに去り、突然の明解さで、僕は何をすればいいかがわかったのだ。 「ジュリー、ハニー。メーキャップはどんなふうにすればいいのか、教えてくれる? それから、僕の髪は、かわいらしくなるかな?」 ちょっとためらいがちで、でも希望に満ちたその笑顔が、彼女の唇の上で変化して、本物の屈託ない笑顔に変わった。 彼女の目は、新しい涙で、輝いていた。でも今は、それがうれし泣きであることを僕は知っている。 彼女は、手早く涙を拭い、後ろに下がった。 「私なら、誰よりもうまくできるわ」 彼女は自信満々に宣言した。 「化粧台の前に来て、かけなさい」 彼女は椅子のそばに動いて、僕のために、それをまわした。 僕は、彼女のあとに続いたが、その「超高層ヒール」から転落しそうになった。僕は、まるで特大のゴリラのように不器用だった。 彼女はくすくす笑うだけで、助けてくれなかったが、いくつかの有用なアドバイスをしてくれた。 「歩幅を小さくして。ヒップをスイングしてごらんなさい。そうすると、足を、もうひとつの足のすぐ前に出すことができるでしょ。綱渡りするみたいにね。つま先で歩くのよ」 彼女の言うとおりしてみると、ほんとうにうまくいった。 僕の歩きは、まだ不器用な感じだったが、でも、鼻と絨毯との破壊的な接触というような羽目には至らなかった。 多くの危険を回避して、僕は、ゆっくりと慎重に、ジュリーのすべての化粧品が並んだ化粧台の椅子まで行き、そして、感謝の言葉をつぶやきながら、その上に身を置いた。 前屈みにならずに――でも、それは、その馬鹿みたいでワンダフルなコルセットが、僕に、堅く直立したパーフェクトな姿勢を強制したからに他ならないが。 「だめ、もう一度立って」と、彼女は命令した。 僕は、足にあらがいながら立って、彼女のことを、探るように見た。 「女性が座るときは、スカートが皺にならないようになでつけるものなの。もう一度やってみて」 今度は、なめらかに手を使ってスカートを伸ばしながら、でも、エレガントな姿勢を崩さずに、体を落として、僕は、もう一度腰掛けた。 彼女は、僕の努力の成果にうなずき、化粧台の方を見た。驚いたことに、彼女は化粧瓶の一群やあれこれを脇に押しのけ、クローゼットから、別の新しい包みを取り出してきた。 彼女は、少しの間、照れたようにして、そのあと言った。 「あなたに似合う色を、私、もう用意してたの。あなたは私のを使わない方がいいわ。どうしてもそうしたいなら反対はしないけど、あんまり似合わないと思うの」 そう言ったあと、彼女は、その包みから、瓶やチューブや小さなプラスチックの箱などを取り出し、化粧台の上の空いたスペースに、まるで戦闘のために整列する軍隊のように並べた。 「準備オーケー。これを使って、あなたはどこまでできるかな。もちろん、私は、ずっとやってあげるつもりはないのよ。あなたが自分でやっていけるようになるために、ちょっとの間手伝う以外はね。たとえば、眉のシェーブは私がやったげなきゃいけないわね。あとは、あなたがベストでゴージャスだと思うことは、なんでもやってみて。私は、あなたのメイクに文句をつけないわ。だって、あなたは、私に対して、完璧にそうしてくれたんだもんね。私の干渉は、あなたの才能を麻痺させることにしかならないと思うの。まあ、とは言っても、しばらくは、このお馬鹿さんな爪につき合ってあげるから、あなたは、ベストショットで、私をやっつけてみて。じゃ、戦闘開始」 彼女は、小さな女の子のようにいたずらっぽく笑って、毛抜きを手に取った。 次の瞬間に僕は、見る前に跳んでしまうという馬鹿な性癖や、結果がどうなるかなんて十分に理解せずにことに熱中してしまう性格を考え直さなければいけないと思った。 眉毛を抜くのって、痛い! 激痛というほどじゃないにしても、ちくちくした痛みが、次から次へとつづくのだ。彼女の作業が終わる頃には、僕の眉毛は全部なくなってるんじゃないかという気がしてきた。でも、彼女は抜きつづけた。やがて、その間隔がだんだんまばらになって、眉の輪郭のバランスを見ている時間の方が、抜いている時間よりも長くなった。 少なくとも、彼女は、僕が望んでいるとおりにやってくれているはずだ。 彼女は、僕を鏡に向けて座らせてはいなかった。 「オーケー。これで最悪のパートはおしまい。あとは、痛い思いはしないはずよ」 「よかった。もしこんなことばかりなら、今すぐ敗北を認めて、君のすることになんにも文句をつけないって言うところだった」 彼女は笑って首を振った。でも、彼女の関心は、そこに広げた化粧品の選択に移っているようだった。 「えっと‥‥、眉がちゃんとしたスタイルになって、実際、あと口紅さえあれば、あなたはもう立派に女性として通るわ。あなたの顔の骨格のつくりって、女として申し分ないものだから。でも、それじゃまだ、やっと合格点がとれるってだけね。あなたはエースになれる人よ。私がやれば、ほんの2・3分でいいわ。それであなたは、近所でいちばんのかわいい子になれるはずよ」 「君が引っ越さないかぎり、だめなんじゃないかな」と、僕は異を唱えた。 でも、僕の興奮は、どんどん高まっていた。専門的な知識をもっている彼女の目から見て、その可能性があるというなら、僕は、ほんとに美人になれるかもしれない。 それは、2・3分ではすまなかった。 その場で彼女のやったことすべてを理解できたわけではない。でも、彼女は、僕がこれまでメーキャップだと見なしてきたことを始める以前に、肌の色を調整するためのものや、あるいは色ではないなにかのためのものをいろいろ使っていたようだ。 彼女は、僕の顔全体に、さらには、ブラウスの襟をあけて首のあたりにまで、クリームやローションを塗った。 しかし、ついに彼女は、僕のまぶたに、明るい色を軽快にはたき始めた。ゴールド、ピンク、パープル。 さらに、彼女はつづけてスモーキーグレーを加えて自然な色に戻し、それから、ちょっと白も使った。彼女がアイラインを引くためにペンシルを動かしている間、僕は、彼女の指示で、上や下や、あちこちへ視線を動かした。そして、マスカラを加えるときも、そんな眼球の運動を繰り返した。彼女は、さらにもう一度マスカラを加え、それから、まだなにか他のものも塗った。 彼女がそれらをし終わったとき、僕はまぶたのそれぞれにまるで2ポンドくらいの重みを感じた。 「あなた、ラッキーだわ」 彼女の声が僕の考えを中断させた。 「あなたのまつげって、そのままで、そうとう長くて量も多いから、つけまつげが必要ないのよ」 よかった。長くて多いまつげでさえ、彼女はこれだけの手間をかけたわけだから、もし貧弱なまつげだったら、どれだけの手間がかかることか。 アイメイクがすむと、彼女は、僕の頬に、より明瞭な色をさして、形と輪郭を整えた。さらにその上で、彼女はそれを十分になじませた。僕は、そんなにこすったら、色が濁ってしまうんじゃないかと思った。 最後に、彼女は小さな筆を持ち、僕の唇に、入念に深紅の輪郭を描いた。僕が実際の唇の形だと感じるところを越えて、色を入れている感じがしたから、彼女は、僕の唇のサイズをちょっと厚く見せようとしているにちがいなかった。その輪郭を満足できるものに仕上げたあと、彼女は、その中を艶やかなルビーカラーで塗った。それはきっと僕の爪の輝きとおそろいなのだろう。 「君の計画では、これはあとどのくらいつづくの?」 僕は、それに腹を立てているわけではなくて、楽しんでいるんだということを伝えたくて、笑顔を浮かべてきいた。 「私の夢の中では、ほとんど永遠につづいてるんだけど、今日まではそれがかなわなかったのよ」と彼女は言った。 ジュリーがそのクリエイティブな仕事の手をいったんとめたので、僕は、鏡を見ようとした。 「まだ、だめよ」と、彼女はそれを制止した。 彼女は、僕のブラウスの後ろのボタンをとめ、それから、宝石箱のところまで行って、きらきら輝くハート型のロケットがついたチェーンを持ってきた。それは、このアンティックなスタイルのブラウスにぴったりだった。 彼女がピアスを開ける前に使っていたクォーターサイズのゴールドのイヤリングが、僕の耳にとめられた。そして、カラフルで透明な宝石のついた指輪が二つ、僕の指にはめられた。 僕の男物の腕時計をはずしたあと、彼女は、ちょっとの間、指で額を叩くようにして考えていた。そして、指を鳴らすと、彼女の香水に手を伸ばした。 「そうね。これなら、あなたも使えるわ。オピュームは、ブロンドによく似合うと思うもの。特に、あなたのにはぴったりよ。‥‥あっ、忘れてた。私、なに考えてるんだろ」 その秘密めかした感嘆の言葉とともにクローゼットまで言った彼女は、そこから、また新しいパッケージを引っぱり出してきた。 それは、古いスタイルの円筒形の帽子箱のようなものだった。ただ、それよりかなり高さがあった。2フィート(約60センチ)くらいはあるだろう。 その箱の中から彼女がとりだしたのは、金色に輝くウィッグだった。僕のくすんだブロンドとはちがって、そのウィッグは、ピュアな蜂蜜のように、はっきりした輝きを持っていた。彼女がそれを置いたとき、それは、まるで蜂蜜がたれるように優美に彼女の手の上を流れた。暖かい色の上で、明るい光が踊っていた。 僕は、そこに座っている間、けっして退屈だったわけではない。でも、じゅうぶんにリラッスしていなかったこともたしかだ。 コルセットの締めつけと戦いながらの呼吸。不自然なアーチを強要された足。室内の気流が短いスカートの下で揺れたときの冷たさ。しかし、そうしたものは、ジュリーが僕の顔を仕上げるのを待つ間に、心の裏側へと遠のいていた。 そして、そのゴージャスなウィッグは、さらに、それらすべてを消し去ったのだ。 でも、あのコルセットでさえ、息の根を止めるほどには僕の胸を締めつけることはできなかったのに、そのウィッグをかぶされたとき、僕は、長い時間、呼吸するのを忘れた。 ジュリーは、僕自身の短い髪全体を覆うように、慎重にキャップの位置を決め、飛び出した髪の毛の端を、その中に押し込んだ。そして、その金色のきれいな前髪を、僕の顔を的確に枠どるように引き下ろした。 その髪は肩を流れ落ち、先端は、僕の胸‥‥というか、つまり‥‥バストのところまで達していた。そして、その髪は、僕の頬を愛撫し、ソフトに、優しくささやいた。 メイクを始めてから数時間‥‥いや、少なくとも30分が経っていた。 ついにジュリーは、その作業を終えた。彼女の顔は、自らの満足により、勝ち誇って見えた。しかし、今のそれは、さっきまでの、僕を強烈にいらつかせるようなものではなく、勝利の喜びを二人で分かち合うような表情だった。 彼女は、まるで侍従のようにうやうやしく、片手をさしだし、僕が立ちあがるのをやさしく助けてくれた。それから、僕の震える肩を持ち、鏡の前に立たせた。 僕は、どのくらいの間、息を呑んでいたのかわからない。 僕には、呼吸なんて、どうでもよかった。 呼吸とか、そんな現世的な事柄のずっと向こう側へ、僕は突き抜けていた。 僕は、空気そのものだった。僕は、陽の光だった。 僕は、揺らめく炎だった。僕は、溶けた金だった。 僕は、きらめくダイアモンドだった。僕は、光が踊るルビーだった。 僕は、美しかった。 今、僕のイメージは完璧だった。 僕の特徴は、少しも損なわれていなかった。それなのに今、それは、優美で女性的な顔と、したたる蜂蜜の流れとして、そこにあった。 僕が、やっとの事で呼吸を再開したのは、鏡の中の完璧なイメージに圧倒され、固まってしまっている自分自身を認識できてからだった。 しばらくして、ジュリーが、僕の重装備のあばら骨をつつきながら言った。 「悪くないでしょ。私、あなたを、本物のベイピーにするって言ったはずよ」 「ああ、ジュリー。信じられないよ。君は天才だ。愛してる」 僕は熱に浮かされたように、言っていた。 「よろしい。もう、あなたは私と離れられないってことね」 彼女はにっこりと笑った。 そして、彼女は提案した。 「私も着替えるから、その間に、歩く練習をしてて」 で、僕は、この夜十数回目の、自分を立て直す努力をすることになった。 彼女のアドバイスに従い、ベッドルームのこちらから向こうへ、気取って歩いた。ゆれる髪と、弾むスカートの感触を楽しみながら。 「はい、これ」 彼女は、僕を呼び止めると、長いストラップのついた赤い革のショルダーバッグを投げてよこした。 「あなたの財布とキーを取ってきて、それに入れて。私は、あなたが持って歩かなきゃいけないメーキャップ用の化粧品を選ぶから」 その意味がわからないままうろたえている僕の目に、さっきまでのカジュアルな服ではない彼女の姿が飛び込んできた。彼女は、ダークでエレガントなパンティストッキングと、さらに、ぴったりとしたレザースカート、そして、彼女の美しい瞳とマッチした紺で、表面がかすかに光っているサテンのブラウスを着ていた。足のそばに置かれているのは、ハイヒールのパンプス(もちろん、僕のヒールほど高くはないやつ)だった。 それは、明らかに、夜の外出用の姿だった。 「どうしようって言うの?」と、僕はきいた。 「ディナーがまだだから。お腹すいたでしょ」 「そりゃ、そうだけど。僕らは出かけられないでしょ。家でなにかつくるつもりだったんだけど」 「どうして? それだけホットでいい感じなら、なにも問題ないでしょ。私がしてあげたことは完璧よ。どうして家に隠れている必要があるの?」 そんなことを考えるのは愚かだといわんばかりに、彼女はきいた。 僕は、口ごもりながら、まるで筋の通っていない抗議をした。 「でも、‥‥その、‥‥君は‥‥いや、僕らは、約束したはずだよ。これは、二人だけのことだって。人がなんと思うか‥‥」 「鏡を見てごらんなさい、お馬鹿さん。それで‥‥、人はなんて思うの?」 と、彼女は笑った。 もちろん、彼女の言うことはまちがっていない。誰もが、この格好を見れば、疑問をさしはさむ余地もなく、僕のことを生まれついての女性、それも、相当な美人の女性だと言うだろう。 「でも‥‥、だけど‥‥、僕には、女らしい振る舞いなんて、できないよ。どんなふうに話せばいいの、どんな仕草をすればいいの」 僕は、論理の臨界点ぎりぎりのところで、口ごもっていた。 「だから、これから、それを学びに行くんじゃない」 彼女は容赦なく言った。そして、ソフトな口調に変えてつづけた。 「ねえ、ダーリン。このアプローチは、あなたにとって楽しみなものになるはずよ。楽しみ‥‥ジョイ? おもしろいわ。そうしましょ。それがあなたの新しい名前よ。ジョイ。あなたは、これから、その名で生きていきなさい」 彼女は、厳格ぶった口調で、命令した。 「さあ、バッグに、財布とキーを入れて。女らしい歩き方を忘れないでね」 僕は、しばし呆然と立ちつくしていた。しかし、彼女は、鏡の方に向き直ってしまった。自らのメイクに専念しはじめた彼女は、ボディ・ランゲージで、これ以上の議論をつづける気がないことを語っていた。 僕は、まだ呆然としたまま、部屋を出て、財布とキーを置いたテーブルまで行くことになった。 ショルダーバッグには、すでに、ティッシュと、コンパクトと、そして、タンポンじゃないかと思われるものが入っていた。その他にも、口臭消しのミントが二つ、さっき使った口紅、そして、必要ない気がするけれど、女の子なら誰もが持っているいくつかのものが入っている。それでも、僕の財布とキーを入れる余地は、まだじゅうぶんに残されていた。僕は、それらを中に入れ、ヘッドルームに戻った。 その時にはもう、僕の歩き方は、なんとかさまになっていた。足元を見ることなく、顔を上げて、ベッドルームまでたどり着くことができたのだ。 実際の話、ヒップでリズムをとって体を揺することと、優美につま先を出すことを覚えてから、歩くのが楽になっていた。 ベッドルームに戻ると、ジュリーは、化粧も着替えも終えて、パンプスを履くところだった。 「僕がしたのとくらべて、そんなに速く用意できるなんて、ずるいんじゃない」 僕は、笑いながら非難した。 彼女は、くすくす笑い、言い訳した。 「そうね。私は、髪の毛をいじらなくていいし、ちょっとフラッシュメイクをすれば、それですむから」 ジュリーは、僕のショルダーバッグを渡すように示し、受け取ると、中を見た。 コンパクトと口紅が外側に出され、中のものの順番が変えられた。その配列は、コンパクトがいちばん上で、その下に、口紅、アイシャドウ、ブラシ、そしてマスカラという順なった。 「ねえ、アイライナーは?」と僕はからかった。 「あっ、ありがとう。忘れるとこだった」 「冗談のつもりだったのに。そんなに要らないでしょ」 「実際の話、あなたには必要になるはずよ」と、彼女は反論した。 「きれいでいつづけるためには、お化粧直しは欠かせないわ。あなたには、ベストをつくしてほしいと思ってるのよ」 「はい、奥様」 僕は従順に従った。その時、くすっと笑った感じは、なんだか女性特有のムードをうまく出せているような気がした。 彼女は、そんな僕をほめてくれた。 「いい感じよ。今の笑い方を忘れないでね。でも、その他の点で言えば、あなたは、もっとソフトにしゃべった方がいいわ。ちょっとあなたの声のトレーニングをするために、話しながら行きましょ」 「はい、奥様」 僕はそう繰り返した。まだ、この時には、ささやき以上のものではないソフトな息づかいの声に過ぎなかった。 ジュリーは、うなずくと、僕に、彼女の先に立って部屋を出るようにうながした。 僕は、彼女が僕により女性的な個性を身につけさせようとしているのに気づき、それに応えようと思った。 彼女のサンダーバードのところまでたどり着くと、彼女は、僕のためにドアを開けてくれた。そして、僕がどう乗り込めばいいかを早口でささやき、アドバイスした。 僕は、かかとをできる限り車のそばにそろえ、膝を合わせた。そして、座った。もっと正確に言えば、椅子の上に落ちたのだ。僕の体重が車の中に移動すると、僕は、注意深く膝をそろえたまま、二本の脚を同時に持ち上げ、それをくるりと車内に運んだ。 悪くないぞ。 僕はそう思ったが、骨の折れることにはちがいない。 ジュリーは運転席の側にまわり込むと、同じような動作で、シートに滑り込んだ。でも、その優美さは、僕には絶望的なほどうらやましいもので、僕の努力がまだ不足していることを思い知らされた。 彼女は、車をバックさせ、僕のロケットスタートなんかではなく、発進させた。しかし、車はスピードを上げた。 「どこへ行こうっていうんだい?」 僕は、ノーマルな声できいた。 「ジョイ、あなたは、いつも、もっと女っぼくしゃべらなきゃだめよ」 彼女は、僕を叱った。 「ソフトな声でしゃべること。トーンを変えてね。それから、ぶっきらぼうにならないように気をつけて。なにか言うときは、よりふさわしい言い方で。たとえば、『あら、このすてきなサラダバーをいただく席を見つけてくださったら、あたし、すごくうれしいわ』みたいに」 「あら、このすてきなサラダバーをいただく席を見つけてくださったら、あたし、すごくうれしいわ」 僕は、微笑みながら、彼女が言ったソフトなトーンを試してみた。感情の流れにまかせて。そして、笑いながら、僕の別ののぞみもつけ加えた。 「できれば、厚くてジューシーなリブステーキもね」 「ノー、ノー、ノー」 彼女はおかしそうに笑って答えた。 「レディは、赤肉の厚切りをがつがつ食べたりしないものなのよ。それに、賭けてもいいわ。そのコルセットを着けてるかぎり、あなたには、そんなこと、できっこない」 「そうね。そのとおりよね」 僕にも、それはわかった。 「あたし、さっきまで、すごくお腹がすいてたのに、今は、それほど感じないもの」 「あなたの胃は、空っぽのまま、圧迫されてるからよ。感謝なさい。それが、女の子らしい体型を維持できる秘訣よ」と、彼女はからかった。 「でも、なにか食べた方がいいわね、バーまわりをする前に」 「何ですって?」 僕は、思わず、女っぽいトーンで叫んでいた。地獄のコルセットのせいで、その全身からの叫びに、力を込めるだけの空気がなかったからだ。 「今、言ったとおりよ」 ジュリーは言い放った。 「ところで、今夜、私が結婚指輪をはずしてても、あなた、気にしないでしょ? 私、あなたと、2人のホットな女として、楽しい時間を過ごしたいの。だとしたら、あなたを、私のただ一人の『たよりになる』人として縛りつけておく必要なんて、どこにもないものね」 彼女はその言葉どおり、彼女の指から結婚指輪を抜き取ると、バッグのサイドポケットにしまった。 僕は、すでに数年前から、その指輪をしていない。コンピューターのアップグレードやその他のことをするときに、じゃまになるという理由からだ。 僕は唐突に、もし僕が、この魅惑的な爪を持ちつづけたいなら、これから先ずっと、僕自身のアップグレードをしつづけていかなければならないということに気がついた。 思考がそちらを向いていたせいで、僕は、彼女の言ったことの、ほんとうの意味を、理解しきれなかったようだ。 それは、これから二人で、男あさりに行くということだったのだ! 僕らが、最初に行ったのは、ヤッピー・スープとサラダの店だった。 そこに入ると、ジュリーは、僕の目をにらんだ。最初、僕は、それがなにを意味したものか、よくわからなかった。 と、彼女は、スープとベークドポテトのオプションはつけずに、サラダバーだけをオーダーした。注文がすむと、彼女はまた、僕をにらんだ。それで、ついに、彼女が言いたかったのは、僕に同じようにオーダーしろという意味だということがわかった。ふだんの僕だったら、スープのすべてのサンプルを取り(それも大きいボウルで)、そして、自分で運びきれないほどのポテトを注文していただろう。 女の子であるということは、少なくとも食べ物に関しては、うんざりすることのようだった。そう思ったが、僕は、彼女と同じオーダーをした。 レジの女の子は、僕をちらっと見ると言った。 「5ドル32セントです。ミス」 ミス。彼女は、ミセスではなく、ミスと言ったのだ。 少なくとも、この深い関係ではない関係の中では、僕は、それなりにかわいいヤングレディに見えるようだ。 女性になりすましている僕を目撃している人は急速に増えているが、このキャッシャーほどには、僕に注意を払う人間は誰もいないようだ。また、少なくとも今、このキャッシャーで、僕の代わりにお金を払ってくれる人もいなかった。 お金を取り出すため、ショルダーバックの中の発掘をはじめるやいなや(ジュリーは、なんで二人分払ってくれなかったんだよう)、その長い爪は、女性のファッションがいかに不便なものかを僕に教え、僕は、降参しかかった。 ひどいことに、ジュリーは、ひどく楽しそうな笑いを浮かべた顔で、僕が格闘しているのを見ていた。僕が、それが手に負えないのを認め、助けを求めるのを待っているにちがいない。その笑い顔を見上げ、助けてもらう方がよかったのかもしれない。 でも、なんとか僕は、必要なお金を不器用に取り出し、キャッシャーに渡した。 「そんな長い爪で、よく我慢してられますね」 そのキャッシャーは、どこか物欲しげにため息をついた。 「だけど、そのおかげで、あなたの手は確かにきれいに見えますよ。そんなに細くてエレガントで。私も、そんな爪がうまく扱えるようになったらって思うもの」 「あたし、これ、今日やったところなのよ」 僕は、ソフトな声で白状した。 「まだ、扱い方の勉強中なの」 「あなたって、勇気があるわ」 彼女は、にっこりと笑った。 「でも、もしあなたぐらいきれいになれるんだったら、たぶん、私だって努力すると思うわ」 「ありがとう」 僕は、顔が赤くなったのを隠すために、ちょっと頭を下げるようにしてお礼を言った。 そのせいで、僕の髪が、顔の前全体に落ちてきてしまい、僕は、僕の変装がいかに極端なものだったかを思い出すことになった。 たぶん、いずれ、何とかうまくやっていけるようになるだろう。 ジュリーがあつらえてくれたのはショルダーバッグだったので、僕は慎重にストラップを肩に掛け、トレイを持って、サラダバーまで歩いた。 体を揺らす高い靴と、トレイの上のものをよく見えなくさせている胸のふくらみのせいで、僕は、食器を落としてしまうのではないかと想像して、神経質にならざるを得なかった。でも、なんとか僕は、サラダバーにたどり着くことができた。 サラダを皿に盛っている時、僕は、首の後ろがくすぐったいようなかゆいような感じがした。髪の毛がそこをくすぐっているようだった。それで、僕は、首を振って、髪の毛の位置を直してみた。 でも、くすぐったさはなくならず、僕はさらに強く首を振って、髪をさざ波のように揺すったり、その先をはねさせたりした。 やはりどちらも、僕のかゆみを解決することにはならず、それで、僕は、トレイのバランスに気を配りながら、片手を背中にまわし、そこを掻いた。と、ジュリーが顔を近づけ、小声で注意した。 「やめなさい! 見られてるわよ。あなたって、男を選ぼうとは思わないわけ?」 えっ、彼女はなにを言ってるんだ? 僕は、レストランの中を見渡した。 と、たくさんの視線を感じた。それらはみんな、僕を見ているような気がした。 見られているというむずがゆさは、その前に感じていたかゆさの何倍ものものだった。それらの視線は、強烈に僕に浴びせられているのだ。 これがいったいどういうことなのか。それを知りたいと僕は強く思った。状況を把握し、このむずがゆさを割り引く方法を知りたいというだけでなく、僕が見まわしたとき、そのいくつかの視線に見返され、さらにそのうちの少なくとも二つは、立ち上がって僕に近づいてきたということの理由を。 僕は、パニックに陥って、ジュリーを見た。と、ジュリーは、カウンターの終わりのところに近づいていた。 他に選択の余地はなく、僕は、急いで彼女の後を追い、やっとのことで追いついた。 感謝すべきことに、彼女は、僕を追ってくる男たちから離れたテーブル席を選んだ。僕のあとをついてくる男たちが、ほんとうにいたんだ。 僕らは、席に着き、その簡素な食事をとった。 ジュリーは、まだ僕のことを怒っているようで、それに、たぶん‥‥ちょっと妬いているみたいだった。 いずれにしても、彼女は、強い調子のささやき声でコメントを再開した。 「ここの男たちを引っかけようとするのはやめてよね。彼らはろくなもんじゃないわ。あなたは、男たちの一人に、あなた自身を選ばせるようにしなきゃいけないのよ。もっと、あなたらしく、つまり、女の子らしくしなさい」 「僕は、引っかけようとなんかしてないよ!」 僕は、同じくらい強い調子でささやき返した。 「首の後ろが、かゆかっただけ。そしたら、たくさんの人が僕のことを見てた。びっくりするぐらい強烈に。こんなすごい思いをしたことって、これまでにはなかったもの」 「いい? あの男たちは、あなたが、彼らの気を引くために、髪の毛を揺すったと思ったの。あの時もう、彼らは、まるで象のパレードでも見るように、あなたに注目してたのよ。でも、それは無駄たったみたいね。あなたは、それになにも気づいてなかったんだから」 彼女は、笑いながらそう言った。 僕がわざとそうしたわけではなく、ただそれに気づいてなかっただけだと知って、彼女のユーモアは回復したようだ。 「速く食べて、もっといいところへ、ハンティングに行きましょ」 「僕、男をハントする気なんて、ないよ」 僕は強く言った。 「そんな!」 彼女が言い返してきた。 「そのルックスなら、あなたが笑いかけるだけで、男たちはひれ伏すわよ。あなた、すごい美人なのよ。あなたが、男たちの関心を引かないなんてこと、言わせないわ」 「そんなこと、ないよ!」 僕は彼女の主張に反論した。でも、どこかで、彼女の言っているとおりなのかもしれないと感じていた。 店の中を見渡すと、僕の目の動きに合わせて、すぐに何人かの男がアイコンタクトしてきた。でも、ジュリーの目には、そんな男たちは、ろくでもないものに見えるらしい。 「ここの男たちのどこが、そんなに悪いと思うわけ?」 僕がきいた。 これは、大きなまちがいだった。考えが次に進んでいて、僕は彼女の最後に言ったコメントを忘れていたのだ。 案の定、彼女は、僕らがまだ「男を引っかける」ことについて話していると思ったようだ。 「ほら、私の言ったとおりじゃない。あなたは、男に興味を持ってる」 「ちがうよ。そういうことじゃないよ」 僕は主張した。 「僕には、ここの男たちがどうして選ぶに値しないよう見えるのか、それが理解できなかっただけなんだ」 「少なくとも、私たちは、彼らに選ばれるためにここにいるんじゃないわ。私たちは、今夜、楽しい時間を過ごしたいって考えてるのよ。誰かを連れて、家に帰りたいって思ってるわけじゃない。こんなろくでもない男たちのことで、時間を浪費するつもりなんてないわ。ほら、彼らを見てごらんなさい」 僕は、彼女がなにがそんなにいやだと思うのか知りたくて、何度も、まわりを見渡した。そうすれば、僕もそう感じるかもしれないと思って。 僕はこれまで、男を、魅力的かどうかという観点で見たことなどない。僕にとって、彼らは、風景の一部でしかなかった。たぶんそれは、そこで直面することに、気が重くなるからだ。 僕は、男、つまり戦士としては、あまりにも背が低く、かつ細かったから、そういうことはできるだけ考えるのを避けてきたのだ。 それで僕は、このサラダの店にいる男たちを新しい目で見てみることにした。つまり、今、僕がそう見えている性にふさわしい目で、彼らを観察してみたというわけだ。 おそらく僕には、ジュリーに見えているものと同じものが見えはじめていた。 男たちは、おおよそ2つのカテゴリーに分けられるようだ。 ひとつのタイプは、ちょっと太りすぎの男たちだ。彼らは、僕‥‥あたしたち女が、ライトミールを食べてそうしているように、ウエイトコントロールした方がいいようだった。 もうひとつのタイプは、とても無害だとは思えないやり方で女たちに接してくる男たちだ。彼らは、絶えず、女たちを見て、見つめて、値踏みして、この女の牧草地の中から、価値のありそうな女を見つけ出せないものかと試みていた。 かなり絶望的だ。僕は、そう思った。 2番目のタイプで、連れのいない男たちは、僕が最悪だったとき時と同じくらいオタクっぽい奴らだった。やせていて、はにかみ屋で、たいていは似合わない眼鏡をかけ、絶望的なほどの飢えた目で、一人で来ている女たちを見ているのだ。彼らは、本を読んで栄養を取り、本を読んでどこかに行くような本好きに見えた。そして、炭水化物が豊富に含まれた食べ物を食べ、そのやせた骨格になにがしかのものを加えたとしても、それが身になると思えなかった。 絶対に、あたしのタイプじゃないわ。 えっ、僕は今、なんと言った‥‥いや、なにを考えてた? どんな男だって、僕のタイプじゃない‥‥はず‥‥だよね。 僕は、そんな思いを、サラダに隠して食事をはじめた。その長い輝く爪で、うまくフォークを使うことを心がけ、僕のドレスや、唇や、その他のものを汚さないように注意しながら。 皿の上には、おいしそうなものが積み重なっていたが、それは、サラダだけだった。僕は、ポテトとスープがないことをまた不満に思い始めていた。 でも、半分くらい食べ終わったときには、僕は、その一皿を持て余している自分を発見していた。締めつけられている状態の僕の胃には、他のものを食べる余力などなかったのだ。 食事の間ずっと、僕は、きちんとした姿勢を保っていた。それは、おおよそ、優美で、女らしかったと思う。ただ、僕の輝くブロンドの髪がブラウスの前に落ちてくるので、僕は、周期的に、ルビーに光る爪で、それを跳ね上げなければならなかった。それが、その女らしさを、疑いなく増幅させてしまったようだ。 「あなた、またやってるわよ」 ジュリーが注意した。でも、彼女は怒っているのではないことを示すために、目に笑いをたたえていた。 僕は混乱して凍りついた。内面的な思いにとらわれていたせいで、そして、女性的な外見に安心していたせいで、僕は、人から見られていることを忘れていたのだ。僕の、一挙手一投足を、すみからすみまで。 「もう、出よう」 僕は、ささやき返した。 「どっちにしても、もう食べられないよ」 「そうでしょ」 彼女は、満足そうに言った。 「少なくとも、そのコルセットをつけているうちは、あなたは、レディらしく食事せざるを得ないのよ」 僕は、その論点にについては、彼女の勝利を認め、うなずき、そして、立ち上がった。 僕がトレイを持って、コンベアの方へ行こうとしたとき、ジュリーはまた、僕がやってしまったべつの誤りについて、注意した。 「バッグを忘れないでね」 彼女はにっこり笑ってささやいた。 「これからは、あなたがどこに行くにしても、それをあなたの腕に溶接しておく必要がありそうね。この女の不便さも、歓迎してあげて」 僕は、トレイを元に戻し、慎重にバッグのストラップを肩に掛け、ふたたびトレイを持ち上げた。その間ずっと、僕は、ぐらつく靴の上でバランスをとらなければならなかった。僕の足は、ふたたび立ち上がった時から、痛み始めていた。 「もう、帰ろうよ」 僕は懇願した。 「死にそうに、足が痛い」 「おお、かわいそうなベイピー」 彼女は意地悪そうに笑ってみせた。 「少なくとも、車のところまでは、がまんしなさい。私は、あなたがウィッグをとるのを助けるわ」 「だめだよ」 僕はささやき返した。 「僕は、女の子じゃないって、人に知ってほしいわけじゃないもの。ちょっと足を休ませたいだけ」 満足げな勝利の笑いが、彼女の顔に戻ってきた。 「ね、ハイヒールって、価値のないものでしょ」 「そんなに悪いわけじゃないよ。ただ、ちょっとはきこなすのに時間がかかるだけ。もう少し練習すれば、うまくいくよ。一晩だけじゃ無理だけど」 「それは残念ね。私は、これから、他へ行くわ。あなたは、私についてくることも、家に帰ることもできるわ」 彼女はくすくす笑った。僕が一人で帰るなんてできないことをよく知っているんだ。 「わかったよ。君の好きなようにしてよ。僕‥‥あたしも、そうするわよ」 「いいわ。ついてらっしゃい」 彼女は、命令し、出口の方に向かった。 僕は、彼女に追いつくために、ちょっと急がなければならなかった。そして、それは、ノーマルな歩き方(これの、どこがノーマルだっていうんだ)に、より小刻みな動きをつけ加えることになった。 僕が通ったあとに、小さな口笛と、それに、深いため息のようなものが聞こえた。でも、僕は、振り返ってそれを確かめるどころではなかった。 僕らは、駐車場に逃れ、車のところまで行った。そして僕は、ミニスカートに課せられたささやかな謙譲の気持ちを保って、注意深く乗り込んだ。 この夜のジュリーの予定表にある次の場所は、フィーザーズという、聞いたことのあるナイトクラブだった。 「ここは、入れないよ」 僕は、あえぐように言った。 「だいじょうぶよ。ここができてから、ずっと来たいと思ってたの」 彼女は平然と言った。 「でも、ここ、独身者向けのバーだよ」 僕はそれに抗議した。 「なんで? 私たち、独身じゃない。少なくとも今夜は」 彼女は、そう言って笑った。 彼女はすでに車を停め、彼女自身の輝く足を、車外へとすべり出させていた。 彼女は、車から降りると、僕を残したまま、さっさと行ってしまった。僕は、彼女の笑顔の中の挑戦に、腹を立てていた。 いつものことだけれど、大した考えなしにした決意が、僕の持っているあらゆるよいセンスを制圧し、僕は、外に出ようともがいていた。僕は、まだ地を出すことなく、その高いヒールで、低いシートから立ち上がることなどできなかったのだ。少なくとも、他に方法はなかった。 店の入口に向かっているとき、僕は、また別の問題があることに気がつき、彼女の腕を引っ張った。 「待ってよ。僕、どんな身分証明書も持ってないよ。だから、店に入れてもらえないよ。こういう店では、21歳以上かどうかを、身分証明書でチェックするもんだよ」 「そんなこと、心配いらないわよ。私たち、入れるわ」 「どうやって」 僕は聞いた。 「あのね、私は、あなたと2年以上前に知りあったのよ。その時、私たちは両方とも24歳だったわ。それ以上、なにか聞きたいことがある?」 「ああ、ないさ。でも、それを何で証明するんだい?」 僕は、会話を自分の問題に引き戻して聞いた。 「『ああ』なんて言っちゃだめよ、ディア。レディらしくないわ。レディは、『ごめんなさい』とか『すみません』とか言うのよ。それにしても、私、あなたの言おうとしていることが理解できないわ。たぶん、それは、21歳になる以前に、あなたが私に出会ったわけじゃないってことを言いたいわけね。だって、あなた、私がその年になってないときからバーに出入りしてたってこと、知らないんだもの。あなただって、そうできるはずよ」 「たしかにそうかもしれない」 僕は鼻を鳴らしながら言った。 「でも、それは、君が美人だったからだろ。その理屈が、僕にも通るとは思わないよ」 「どうして?」 彼女は尋ねた。 「あなたは、美人よ」 そのへんな感じを、どれだけわかってもらえるだろう? 僕は、ナイトクラブの入口の近くに立っているのだ。短いスカートと、高いヒールで装って。コルセットは僕の体を締めつけ、長い金色の髪がそよ風に揺れて、僕の顔をくすぐっているのだ。しかも、その時、僕は、それらすべてを忘れていたのだ。 それを着ていることを、僕は、まったく自然なこととして受け入れていた。 しかし一方で、身分証明書の問題を持ち出したように、僕は、頭の中では、自分が女性であると思っていたわけではないのだ。 ジュリーが、僕がどんな姿をしているか気づかせてくれたとき、僕は、その困惑に頬を赤らめ、慌ててまわりを見回していた。僕を見た誰かが警察を呼ぶとか、そんなことが起こっていないか、心配になって。 僕たちは、同じバーに向かうたくさんの男たちと、数人の女たちに目撃されていたが、彼らの誰も、特別な注意を払ってはこなかった。 「あのドアのところで、身分証明書を見せる少しの間だけ、バウンサー(酒場などの用心棒)に色目を使うのよ。このゴージャスな爪をくるくるまわしながら、あなたの髪をいじって、ちょっとうつむくの。それから、まつげの間から彼の顔を見上げて、首をかしげるの。スマイル。あとは、イマジネーションを働かせれば、即興でなんとかなるでしょ。彼の注意を証明書じゃなく、あなたに向けさせつづけるために、必要だと思うことは、何でもやりなさい。それで、うまくいくわ。私を信じて」 彼女は言った。 「そんなこと、できないよ」 僕はつばを飲み込みながら言った。 「じゃ、帰りなさい。私は一人で楽しむわ。さあ、どうするの?」 彼女は、軽蔑するような表情で、自分の光沢ある髪を跳ね上げながら言った。 それ以上の議論をつづける言葉も可能性もなかった。 ジュリーがドアの方に向かったのだ。 僕はまた、ヒップの軌道に小刻みな動きをつけ加えながら、彼女の後を追うことを余儀なくされた。 入口につくと、彼女は、平然と彼女の身分証明書を広げて見せ、簡単に通っていった。もちろん、彼女の証明書は本物なのだから、通れない理由はなにもない。 ところが、僕の証明書は「私は男です」と言っているのだ。しかも僕は、それと同一人物には見えないのだ。 ドアに近づくと、僕は、バッグの中から、不器用に身分証明書を探した。 やっとそれを取り出すと、バウンサーの方に近づいた。彼が、そのスカーレットの警棒を僕の上に振り下ろすのを警戒しながら。 もう片方の手で髪の毛をしっかりと握って、僕は神経質に、前の人のチェックが終わるのを待っていた。 そのバウンサーは、黒いカーリーヘアで、ルックスのいい、すました感じの男だった。開襟シャツの襟元からも、その髪の毛とバランスをとるように、カールしたひとかたまりの毛がのぞいていた。 こんなナーバスなままでは失敗すると思い、僕は、無理にリラックスしようとした(というか、リラックスしたまねをしようとした)。そして、髪を持った手をゆっくりとくるくるまわしはじめた。その玄関の光に、僕の爪のルビーのハイライトをきらきらさせながら。 僕は、かつて女の子たちがこちらを誘う仕草を見ながら、フラストレーションを感じていたときのことを思い出してみた。それらの思い出は、ジュリーのマジックによって美しく赤く変えられた唇に、微笑みを運んできた。 身分証明書をちゃんと持っているか確かめるためにうつむいたとき、それらの個人的なうれしい記憶は、同じ微笑みを、僕のまつげの下に潜ませた。 バウンサーの方をちらっと見上げると、彼の目は、僕の手や髪を見て、そして、僕の目を見つめ返した。 僕は、僕自身が、どういうわけか、この誘惑ゲームに巻き込まれていることに気づいた。僕はこの誘惑が与えてくれる力を楽しんでいた。力は、もう後戻りを許さなかった。 彼の目は、くるくる回る僕の指に戻って、揺れていた。僕は、僕自身の目が、彼の視線を追っているのに気づいた。 まったく突然のことだった。僕は、僕の爪の上に、サラダドレッシングの小さなシミがあるのを見つけた。 何の考えもなしに、僕は、その指を口元に運び、それをなめて落とした。バウンサーがそれを見つめていたのに気づいたとき、僕は凍りついた。 狂気の衝動が僕をとらえ、制御不能になった僕の心は、僕が、誘惑する女性として、どれほどの実力を持っているか知りたいと思った。 僕は、その爪と、それにつづく中指をくわえて、ゆっくりと、すべてなめ、そして出した。その間ずっと、僕の目は、そのハンサムなバウンサーをじらすように見つめていた。 彼の目は、なにか訴えるような感じになり、そして、彼の顔が、毛の生え際から、だんだん紅潮したきたのに、僕は気づいた。 彼の注視をつづかせるために、僕は、その手の爪を小刻みに動かしながら、腕を伸ばし、彼の襟元からのぞいているカーリーヘアを軽く引っ張った。 「胸毛の量は、男性ホルモンの量と比例するって聞いたことがあるわ。それって、ほんとだと思う?」 僕は、ソフトに、かすれた声で言った。 「君に見られて、うれしいよ」 彼は、にっこりと笑った。そして、行き先を求めてさまよっている僕の手を捕まえた。 彼は、僕の指を口元に運び、そこに、上品ぶったキスをした。最大級の驚きのふるえが、僕の腕を駆け上がった。 目の前で起こっていることを僕が理解する前に、彼は、僕の中指の爪、つまり、さっき僕がなめた指を、彼自身の口にくわえた。 彼の舌が、爪の下に隠れている僕の指先を、軽く、す速く、叩くのを感じた。 彼が、その才能豊かな舌を、僕の体の他の場所にも使ってみたいと申し出てきたことは、まちがいないだろう。あるいは、僕の体に存在すると、彼が信じているある場所に。 息を呑み、赤面するのは、今度は僕の番だった。 僕はその手を引き戻したが、彼は、通す前のちょっとの間、僕を抱きしめたいと思ったようだ。そして、まんまとそうされたときには、まるでコンクリート詰めにされたみたいで、彼の力を思い知ることになった。 僕はうつむき、そして、彼が僕を見ているか知りたくて、ふたたび目を戻した。 彼は見つめていた。しかし、一方で、目で笑いながら、僕にバーに入るように、合図してもいた。 僕が基本的な運転技能以上のものでそれをしていたという衝撃に、僕は、まだぼーっとしていたが、それでも足は、僕を店の中へと進ませていた。 今度は、僕のさまよえる手をジュリーによって捕まえられたことで、僕はやっと、多少正気に戻った。 「あなたって、インチキなやつね」 彼女は強い口調でささやいた。でも、顔を崩して笑っていた。 「私は、彼の気を引けとは言ったけど、彼の前に身を投げ出せとは言わなかったわよ」 「‥‥つまり‥‥その、僕は、君の言ったことだけをやったつもりだけど」 僕は、抗議した。 「お黙りなさい。そんなのじゃ、私だけじゃなく、自分自身だって納得させられないくせに」 彼女は、そう言って笑った。 「オーケー」 彼女がつづけた。 「いいプランがあるわ。私たち、男を見つけるために別々に行動しましょ。その上で、合流するのよ。男を誘惑することについて、あなたになにも教えなくてもいいんだってことは、はっきりしたもの」 彼女は、僕のブラウスのアンティックな襟につけられた金のロケットを、これ見よがしになおしながら、笑った。 「おぼえておいてね。レディは、最初のデートで、フェラチオまではしないってこと。それから、もよおしたときは、正しいトイレに行くこと」 「フェ、フェラチオ?」と、僕は小さな声できいた。 「馬鹿なこと言うなよ。そんなことするわけないだろ」 「さっきのバウンサーとのショーのあとじゃ、私、あなたがなにをするか確信が持てないわ。その上、あなた、その手のことについて、私に、よく文句を言ってなかった?」 「いや」 僕は否定した。 「前はともかく、最近は‥‥あっ、‥‥まあ、あの時は‥‥、君が‥‥、その‥‥」 「そうよね。あの時は、あなたがイクまで、私はコックをくわえてなかった。で、私は明らかに、あなたのクリームを飲み込まなかったってわけよね。あなたは、私にそうしてほしかったのよね。私にしてほしいことは、自分でもやってみるんじゃなかった?」 「そんなこと、できるわけないだろ」 僕は、せき込みながら言った。 「じゃあ、あなたがこの前言ったことは、聞かなかったことにしとくわね。いい?」 僕は、敗北にうなだれた。 それにしても、それとこれとはちがうだろ。 顔を上げると、そんな僕を残して、彼女はすでに人ごみの中に向かっていた。 僕は今夜、トイレでさえ一人で行けないのだ。それなのに、さっきの彼女の言葉に刺激を受けたのか、僕はちょっともよおしはじめていた。 それで僕は、彼女が完全に見えなくなる前に、そのあとを追おうとした。 ところが、魔法のよう現れた大きな壁が、行く手をふさいだ。その壁は、粋なシャツと柔らかそうななめし革のジャケットを着た、張りのいい筋肉だった。 「あっ、すみません。‥‥ところで、君は飲めるように見えるけど」 巨大な壁のどこかから、見えない声がとどろいた。見上げ、そしてさらに見上げて、僕は、これまで会ったことのないような大きな男と見つめ合っていた。 僕は、いくら高めに見積もっても5フィート9インチしかない。今夜だけは、例の超高層ヒールのおかげで6フィート以上になり、平均を超して、まわりの人たちより多少高い。 それなのに、行く手をふさいだ壁のそばで、僕はまた小さくなっていた。 そのことで、僕は、目の前の山の名前に思い至った。 僕自身は、まったくのところスポーツとは無縁の人間だ。でも、テレビでその試合を見ているから、このブロンドのロードバックが、スティーブ・ゲージだということくらいはわかる。モンタナ・サンダーバーズのプロ・ラインバッカーで、この前のスーパー・ボウルのMVPだ。 その時、深紅の槍を装備したいたずらな手が、意識的な命令なしに伸びていくのを見て、僕は、自分がドクター・ハイドになったような気がした。その手は、上へと伸び、ハーフ・フィールドで僕をブロックアウトしたその肩に、軽く触れたのだ。 「驚いたわ」 僕は、彼の筋肉を爪でたたくようにしながら、ソフトな声で言った。 「あたし、いつも、あなたの肩は、パッドのおかげで大きいんだと思ってたの。でも、今、あなたはパッドをつけてないみたい。これ、全部、あなたなの?」 「ああ、フィールドではパッドをつけるけどね」 彼は、誇らしげに言った。 「ところで、お酒についての答えを、まだ聞いてないんだけど」 彼は、その答えをほんとうに待っているわけじゃないだろう。だって、彼は、驚くほどの優しさで、僕の肘をとり、ブースの方へと導きはじめていた。 その席にはすでに、他のサンダーの選手が二人、目が覚めるほどかわいい女の子を連れて待っていた。 もし、スティーブ・ゲージが、彼らと引き合わせるために、僕をここに連れて来たのなら、彼は、僕のことを、この女の子たちと同じクラスだと見なしたことになる。不意に、僕は、そう悟った。 ファーストネームだけの紹介がかわされ、僕は、彼らに名のっていた。 「ジョイ」 それから僕は、ここへ導いてくれた、僕の連れを見つめた。 「さあ、すわって。男たちは、もうちょっとずれて場所を空けてくれないか?」 ジュリーの指示を思い出し、僕はスカートを伸ばしながらブースにすべり込んだ。すてきな脚が見えすぎないように気をつけて。 僕は、うまくスタートを切れたようだ。でも、シートの上で腰をずらすと、僕のスカートはどんどんずり上がり、自分の場所についたときには、ストッキングの上のところまで見えていた。当然、クリーミーな腿もいっしょにのぞいていた。 例のコルセットのせいで、僕は、まわりで寝そべるライオンたちより、そして、彼らの獲物たちより、フォーマルな座り方をしていた。 「あのさ、ジョイ。僕ら、ゲームのない日は、食べないんだ」 他の選手、ディフェンシブ・バックのジョン・タガートが証言した。 「それは残念だわ。だから、そんなに‥‥強そうなのね」 僕は、微笑んで言った。 「スティーブ、彼女に飲み物をとってやれよ」 ワイド・レシーバーのビリー・スウィフトが言った。 「じゃなかったら、俺がやろうか?」 スティーブは、立ち上がり、ちっちゃな衣裳のウエイトレスに合図した。 彼女はやって来ると、僕のドリンクをきいた。 ちょうどその時、僕は、レディはビールをがぶ飲みしたりしないものだということを思い出し、無害のホワイト・ジンフランドルを注文した。 ウェイトレスは、うなずくと、他の客から、おかわりの注文をとり、ナイトクラブの暗がりに消えていった。 「なんて、きれいなんだ。いったいどうやって、君はその美しさを保ってるんだい?」 スティーブが、僕にきいた。 「それって、あなたのオープニング・ラインなの?」 僕は、くすくす笑った。 「ドリンクの注文なしには、いいオープニングは得られないってわけね。だけど、あなたの壁には、ほんとにびっくりしちゃったわ。いったい、どれくらいの身長なの?」 「たった6フィート6インチ(198センチ)」 彼は、正しくない謙遜で言った。 「あっちのテーブルにいるオールド・スタッドリー・ウェルハングは6フィート10インチだし、それに、うちのチームが今度とったのは、7フィートのルーキーだぜ(7フィートの“おちんちん”だぜ)」 そのラインマンの、明らかに男性のものを隠喩した言葉で、僕は頬を赤らめ、うつむいた。瞬間的に、僕自身の隠された秘密を思い出したからだ。 僕は、当惑して視線を落としながら、我を忘れてこの役に没入していたことに気がついた。僕は、本物の女の子じゃないことを忘れていた。そして、男になんかに興味がないはずだということも。 「やあね、スティーブったら」 他の女の子が、そう言いながら、彼の肩をひっぱたいた。そして、自分の手の痛さにびっくりした顔をした。 「ジョイって、ものすごくレディなのよ。そんなこと言っちゃだめじゃない」 僕のうろたえた視線が、他の女の子の目には、デリケートな感受性を守ろうとしているのだと映ったらしいことに、僕はさらにまごついた。 そして僕は、どんどん深入りしていった。このマスカレードが引き起こす洪水の急速な増水におぼれていったのだ。 「どうやら、あたし、ここにいない方がいいみたい」 僕は、まだ手をじっと見たままで言った。 「お願いだ」 スティーブは、優しく言った。 「僕の落ち度だった。君をもっと大事に扱うよ。心から謝るから、許してくれないだろうか?」 僕は、もしかしたら、からかわれているのかもしれないと思って、彼を見上げた。しかし、彼の目にあったのは、本当の自責の念だった。 彼は、フットボール選手というより、優れた俳優なのかもしれない。そうでないとしたら、彼は、本当に、自分の粗野なコメントを後悔しているのだ。 僕はとっさに出た本能的反応といってもいいジェスチュアで、顔にかかった金髪をかき上げ、うなずき、そして、恥ずかしげな微笑みを彼に向けた。 「ごめんなさい。あたし、ちょっと、まだ‥‥この町に慣れていないだけなの。あなたは、こんなに‥‥大きい人なのに‥‥、あたし、あんな些細なことに‥‥」 「大きいのは、ほんとだぜ」 黒人のスウィフトがにたにた笑いながら言った。 そのコメントへの報酬は、彼のすぐそばに座っている女の子による肩への平手打ちだった。 たぶん、もっと重要なことは、スティーブの口から、言葉にはならないけれど明らかにそれとわかるシリアスな不満の声が漏れたことだった。 スゥィフトは、すぐに困惑の表情を浮かべ、向こう側にいる女の子と話すために顔をそらした。 「どうやら、行った方がよさそうだ」 スゥィフトを怒りの表情で見ながら、彼は申し出た。 「やつには、レディと、いつもやつらが遊んでいるアニマルとの区別がついてないんだ」 「あなたの言うことじゃないわ」 僕は、驚くほど媚びたトーンで答えているのに気がついた。 このコメントに、彼は微笑んだ。さらに、このコメントで、僕の運命、少なくともこの場の運命は、彼の手の中に握られ、そして、ブースの外に運ばれることになった。 彼は僕の手を握り、やすやすとそのブースから連れ出した。その時、僕のスカートが、さらに高くまくれ上がったことに、彼は、表面的には気がつかないふりをした。そして、僕自身も、そんな瞬間に、ちょっと微笑んでごまかすことができるようだった。 僕たちがそのブースを離れようとしたとき、やっと、ウエイトレスがドリンクを持ってやって来た。それで、スティーブは、そのトレイの上から、僕のワインと彼のビールをかすめ取った。 「ビリーに払ってもらおう」 彼は、その陰謀ににやにやしながらささやいた。そしてまた、僕の肘を優しいタッチでつかみ、人混みの中を巧みに導いた。 そのナイトクラブは、ダンスフロアと、それを囲むたくさんの小部屋でできていた。小部屋や、高いかこいでできたブースには、たいてい、ひとつかそこらのテーブルがある。 部屋の設計はさまざまで、ある部屋はダンスミュージックがささやきくらいにしか聞こえないほど静かで、またある部屋は、強打されるリズムの激しさに丸ごとさらされていた。 スティーブの友人たちがいる、中くらいのボリュームの場所を離れた僕たちは、まず、鼓膜を一瞬にして破壊するほど迫ってくる音の爆発の中を通り、そして、驚くほど静かなコーナーで、その移動を終えた。 ノイズだけでなく、視界をも遮断されたそこには、テーブルがひとつだけあった。 「すごいわ。こんなに混んでる夜に、空いてるテーブルが見つけられるなんて」 僕は、驚いて言った。 「驚くことはないさ。僕は予約してあったんだ。バウンサーにここを空けておくように金を払ってね。僕は、チームの連中が好きだけど、けっしてパーティ人間というわけじゃない。ときどき、逃げたり隠れたりする機会が必要になるんだ」 と、彼は主張した。 「あなた、十万人のファンの声援の中でプレイしてるのよ。他にも、テレビであなたのことを知ってるもっとたくさんの人たちがいるわ。それでも、あなたは隠れるのが好きだっていうの?」 僕は、疑うように、彼を見た。 「それは、ちがうよ。ゲームの日の僕は‥‥別人さ。君の言うような人間だと思うよ。ものすごく集中して、ものすごく熱くなってる。でも、フィールドの外に出れば、僕は、まったく普通の男さ」 僕は、くすっと笑った。ただ、新たな尊敬の表情を向けて。 「わかったわ。説得力ある壁にもなれる、普通の男さん」 「壁‥‥? それ、さっきも言ったよね。どういう意味なの?」 「つまりね。あなたにぶつかった時、あたし、人混みに紛れたあたしの‥‥姉を、追いかけようとしてたの。あなたは、あたしが、前を見ることも、よけることも、動かすこともできないくらい、大きかった。それは、あたしにとって壁みたいなものだった」 「おお」 僕の巨大なボディ・ガードは、罪悪感のない顔で笑った。 「今、彼女はどこにいるんだろう?」 「わからないわ。ちょっとひとまわりして、戻って来るって言ってたけど」 「そうか。彼女にもここへ来てもらおうぜ」 彼は、テーブルに置かれた目立たないボタンを押しながら、提案した。彼は今、明らかに、僕の気を楽にするために、粗野な言葉を使ったのだ。 そう、それは、問題だった。 もし彼が、僕が本当はなにに困惑しているかを知ったなら、このテーブルの下の一点において、僕のことを薄汚いやつだと思うだろう。 僕の問題は、一方で、薄汚いやつになっていくことに罪の意識を持っているにもかかわらず、もう一方では、彼が僕に気をつかってくれることに、わくわくしているということだった。 このひとつではなくふたつ人格が現れる比率は、新しく分裂した方が次第に増えていき、その結果、僕は、ますます二重人格状態になっていった。 すぐに、ウエイトレスがひとりやってきた。 彼がそのボタンを押したからだが、それだけが、このサービスを呼び寄せたわけはないだろう。だとしたら、早すぎる。なにより、ボタンを押したのがスティーブ・ゲージだったからにちがいない。 彼は、僕に特徴を言わせながら、その女の子に僕の「姉」のことを説明し、捜して連れてくるように頼んだ。 ここには、100組ものカップルがいる。そして、わざと、見えない場所ができるように設計されている。彼女を捜すのは、簡単なことではないはずだ。 しかし、僕たちがふたたび話し始めてすぐ、ジュリーが、そのウエイトレスに案内されて現れた。 「ありがとう」 僕は、その女の子に笑いかけた。 「とっても、速かったわ」 「彼女はあなたを捜してたんです。私は、よく見渡せる場所に行って、彼女が人混みの中できょろきょろしてるのを見つけたんです。誰かを見失った時って、たいていそうするものでしょ」 ジュリーはなにも言わず、座っていても大きい、僕の連れをぽかんと見つめていた。 「ジュリー、こちらは、スティーブ・ゲージよ。さっき、あなたを追いかけようとしたとき、彼が私の前をふさいだの。で、お酒をごちそうしてくださって、あなたを見つけてくださったのよ」 僕は、そう説明した。 「あの、スティーブ・ゲージ?」 彼女は、あこがれのまなざしで言った。 彼女は、僕ほどのフットボール・ファンではないが、誰がスーパーボウルのMVPを獲得したかくらいは知っていた。 「さあ、どうぞ」 彼は雄々しく言って立ち上がり、彼女をかけさせた。 ジュリーはドリンクを持参していたので、ウエイトレスは出ていき、そして、僕らは話し始めた。 スティーブは、僕の「姉」を、都合のよい話題で会話に引き入れた。 「ねえ、ジュリー。ジョイは、今日、この町にはじめてきたと言った。それから、君が彼女のお姉さんだとも。君たちの地方の女の子って、みんな、そんなにきれいなのかい? 僕は、シーズンオフのための、新しい家を見つけられるかもしれないな」 僕に意地悪そうで楽しそうな笑いを向けながら、ジュリーが言った。 「私のような女の子は、たくさんいると思うわ。でも、ジョイみたいな女の子は、他にいないって、まちがいなく言えるんじゃないかしら。私たちの親戚にも、私たちのホーム・タウンにも」 彼女の声のトーンと言いまわしには、どこか、僕の秘密をばらすぞという脅しがほのめかされていた。僕は、それを無視しようとしたが、その時、僕の顔の上を、蜜の流れが、波のように通り過ぎていったことに、また、困惑してうつむいてしまった。 それは、スティーブの大きな手だった。スティーブの手が、燃え上がった僕の頬を優しくなで、そして、離れていったのだ。 「恥ずかしがることはないよ、ジョイ。お姉さんの言うとおりさ。君は、他にはいないほどの美人だよ」 彼の目が僕を見つめている間、ジュリーは、笑いを押し殺していた。それを見て僕は、恥ずかしさを通り越し、いらだっていた。おおよそ彼女が仕掛けたと言っていいシチュエーションで、彼女が僕をからかっていることへのいらだちだ。 僕は、彼女をにらみつけてから、スティーブの方に向き直った。 「どうもありがとう。あなたは、ジェントルマンよ。もしこのブースの中にレディがひとりもいなかったとしてもね」 ジュリーが、僕のコメントに潜んでいた意味に、突然声を立てて笑った。そして、次の瞬間、僕も、僕の言ったことがほとんど真実だったということに気づき、彼女といっしょに笑わざるを得なかった。 僕は、また忘れていたようだ。僕が、本当のところ、誰で、何なのかを。たぶん、僕は、全然わかってないのだ。 スティーブは、僕らがそんなに笑っていることを、自分がエレガントに侮辱されたとでも思ったらしく、混乱しながら、僕らの方を見た。 彼の困惑する表情を見て取ったジュリーは、僕らが笑っているわけを封殺してしまった。 「気にしないで、スティーブ。これは、女の子どうしの話。あなたには理解できないの」 今度は彼が、僕ら二人だけが共有しているものに首を突っ込もうとしたことで、ちょっと恥ずかしそうにした。 僕は、彼をもう一度、会話に誘い込むことで、安心させようとした。 「あなたとあなたのチームは、この小さな町でなにをしてるの? あたしたち、あなたといっしょにいられて、すごくうれしいのよ。少しもじゃまになんかしてないの」 「ほんとかな」 彼は、いぶかしげに言った。 「チームのやつの何人かが、このベイ・エリアの出身なんだ。シリコン・バレーが始まる前にだって、ここには人が住んでたんだよ。暮らしやすいところだからね。君たちは、ふだんなにをしてるんだい」 「ジョイは、コンピューターの‥‥その‥‥プログラマー。私は不動産会社に勤めてるの」と、ジュリーは答えた。 「えーっ、でも、その指でコンピューターが打てるの?」 彼がきいた。 「あたしも、まだわからないの」 僕は、それを認めた。 「あたし、今日これをつけたところなの。これで働けるかどうか、これからやってみたいと思ってるのよ」 「なるほど。うまくいくといいね」 彼はそう言った。 「君がそれをとらなきゃならないなんて思うと、つらいよ。それは、ほんとに‥‥すてきだからね」 話題の中心になっている僕の手から視線を移しながら、僕は彼のいかつい顔を見あげ、微笑んだ。 長いまつげが、また効果を発揮した。僕は、自分が、ちゃんと計算した上で、その視線を送っているような気がした。 僕の気持ちが彼に向かっていると、感じたからだろう。彼の目がちょっと大きく見開かれたのがわかった。これ以上ややこしいことになる前に、ここから抜け出さなければいけない。 僕の不安を、ジュリーは、それとなく感づいたらしい。今度は、ことを悪くするのではなく、ちょっとだけいい方向に、僕を助け出してくれた。 「ジョイ、私、化粧室に行きたいの。あなたも行かない?」 また、彼女の提案が引き金となって、さっきから僕の中にもあったうずきが大きくなったが、でも、僕が考えたのは、それだけじゃない。 それは、急速に危険な領域に入っていこうとするこのシチュエーションから、僕を救い出してくれるはずだ。 僕がうなずいて席を立つと、スティーブは、紳士としての反射ででもあるかのように、立ち上がって見送った。そんな行為は、ジェイには、思いもおよばないことだった。 ジュリーは僕をリードし、ブースを出て、その施設へと導いた。 「彼を、どこで見つけたのよ?」 彼女はささやいた。 「彼の方が、僕を見つけたんだよ」 僕は、訂正した。 「君を追いかけようとしたとき、彼にインターセプトされたんだ」 「私、言ったわよね。あなたはエースになれるって。それにしても、スティーブ・ゲージ。アメリカの理想的独身男のナンバーワンよ。あなたって、信じられない人ね」 「全部、君のしたことじゃないか。君が、服とメイクとウィッグを選んだ。僕はただ、上品にして、トラブルを避けようとしてるだけだよ」 「そうね」 彼女は、鼻で笑った。 「私、あなたが彼に送った視線を見てるのよ。あなたは、彼をたくましい男だと思ってる。そうよね。そして、あなたはか弱い子ども。私は、表面にちょっとだけつや出ししただけよ。それなのに、あなたは、すごくかわいらしく、レディらしく振る舞ってるわ。プラス、あなたには、そのゴージャスな顔がある。私は、口紅だけあれば、あなたはパスできると言ったけど、あなた、今、もうずっと向こうまで行っちゃってるもの。あなたは、本当にかわいいのよ。なんで私、もっと前に気づかなかったんだろう?」 彼女は「それで‥‥」とつづけた。 「あなたは、楽しんでるわよね?」 僕は、それを認めた。 「うん、変な感じだけど、想像できるどんなことよりエキサイティングなんだ。僕はこれがつづいてほしいと思ってる。なのに、ほんとにこれがつづくことは、最悪だって思ってる。スティーブになんて言ったらいいんだろう?」 そこまで話したとき、僕たちは化粧室に着いた。そして、なんの疑いもなく、僕はジュリーの後に従った。 そこで突然、僕は、そこがすべて小部屋でできているのに気づき、絶望的な気分になった。 ジュリーは、まるでスティーブが僕を誘導してくれたのを真似てでもいるように、僕の腕をつかみ、その部屋に導いた。でも、その顔は、スティーブより事務的なものだった。 「気をつけてやるのよ」 彼女はそう耳打ちした。 「出てきたら、メイクを直してあげるわ」 下着をおろそうとしたとき、そのコルセットは、圧倒的障害となって、僕に、取り澄まして上品ぶったマナーを強いた。 僕には、スカートがすべてあがったかどうも、ガーターの革ひもがはずれていないかどうも確かめることができなかった。 僕は、あえて、立ったまま小用を足したりはしなかった。 もちろん、僕の足が、その部屋の中でまちがった方向を向いていたからではなく、コルセットによってつくられたバストがじゃまして、そのほとばしりの軌道を見て調整することができそうになかったからだ。 そのかわりに、僕は座って、たまっていた圧力からのちょっとした神聖な救済を得た。 すくなくとも、ジュリーが、僕にパンティストキングの代わりに、ガーターとストッキングをつけさせたのは、まちがっていなかったようだ。 もし、パンティストキングだったら、それを上に上げるとき、僕は、それをもつれさせただろう。 長い爪はすべてにじゃまにしかならなかったが、僕はなんとか、僕の「秘密」を隠すことができた。そして、僕のスカートは、それがカバーできる少しの長さ分だけ、僕の脚を覆った。 僕が鏡のところへ行くと、ジュリーは、化粧直しを終えていた。 彼女は、僕のバッグを渡すように指示し、手早く僕のメイクを直すためのアイテムを選んだ。 それは、大して多くなかった。 僕は、ワイングラスにたくさんの僕の証拠を残してきたのだから、口紅はもちろん必要だったが、あとは、てかりだした鼻のためのパウダーだけでよかった。 ジュリーが、途切れていた会話を再開させた。でもそれは、彼女が、また別の質問をしてきたということだが。 「あなたは、スティーブとなにがしたいの?」 「わからないよ。ほんとにわからないんだ。一方では、このヒールを脱ぎ捨てて、できる限り速く逃げ出したいよ。僕は、今、自分のやってることがよくわからなくなってるんだ。僕はこれまで、男に対して、こんな感情を抱いたことなんてない。それは、まちがいない。でも、一方では‥‥そう、もうひとりの僕は、あの信じられないような腕に抱かれたいなんて、思ってたりするんだ。僕はほんとにわけがわからなくなってる。いったい僕に、なにが起こってるんだろう?」 スティーブのパワフルな抱擁のかわりに、僕は、ジュリーが僕の肩を優しく抱いてくれるのを感じた。 「ひとりの私は、あなたにこんなことをさせたのを申し訳ないと思ってるわ」 彼女は優しく言った。並列的なもの言いは、この関係を続けていく意思の表れだろう。 「でも、もうひとりの私は、この探検をもっとつづけた方がいいと思ってるの。もし、あなたが自分の中の女性の部分を探検して、女性であることの意味について、もう少し学んでくれたら、私たちはもっと近づけるって、ほんとに信じてるの。あなたはもちろん彼にすべての真実は話せないわ。そんなことをしたら、彼は、あなたを殺すでしょうね。でも、あなたは、少なくとも、もう少し進むべきだと思うの。だけど、もう帰らなきゃって言ってみるのは、いい方法かもしれないわよ。そうすれば、彼が、あなたの電話番号をきくかどうかわかるじゃない。もしきかれたら、私だけが使っているプライベートな番号を教えればいい。そうすれば、あなたはいつもジョイの声で出られるでしょ。それで、なにが起こるか見るのよ」 僕は、うなずいているのに気づいた。議論をするには、あまりにも感覚が麻痺していたのだ。 ジュリーは僕を元気づけるために、今夜彼女が出会った男について語りはじめた。彼らのすべては、ナード(オタク)かジーク(偏執狂)かスリーズ(ダサいやつ)らしかった。 スティーブが待つテーブルに戻った頃には、僕は、ジュリーとの会話のおかげで、柔らかに微笑んでいた。そして、その夜スティーブに見せてきた、控えめで繊細な態度こそ僕らしいのだと、僕は悟った。 あのバウンサーに対して僕が示したあばずれな性格は、僕の元来の性格ではなかったようだ。もちろん、この文脈において「元来」という意味だけれど。 ジュリーは、口を開くと、いきなり僕らの帰宅の話を持ち出した。 「ごめんなさい、スティーブ。もう行かなきゃいけないの。私、明日の朝、大事な商談が2つもあるの。で、ジョイにもいっしょに帰った方がいいって言ったのよ。この町ではじめての夜だし、妹は私といっしょにいた方がいいと思うの。少なくとも、彼女が迷ったりしないようにね。この大きな‥‥、中くらいの町に」 僕は、とまどいを浮かべたまなざしで、スティーブを見つめた。たぶんそれは、帰らなければならないことに失望しているように見えるはずだ。いや、僕は、本当に失望している‥‥? いずれにしても、彼は、ジュリーの言葉を受け入れた。一度だけあの粗野な言葉を言ってからあと、彼はずっとジェントルマンだった。 「君たちは、いつまでこの町にいるんだい?」 彼は尋ねた。 「わからないの。たぶん、2・3週」 「今度の週末は、空いてる? 僕は、いいヨットを持ってるんだ。で、天気もいいと思うし」 彼はデートを申し込んでるんだ! マジで! 電話番号についてあれこれ策略するまでもなく。 そこで僕は、どうやら彼が、ナーバスになっているらしいと感じた。彼は「いいヨットで、天気もいい」と独り言のように繰り返した。 どこかわからないところから勇気がわきだし、僕の制御不能になった口が、彼に笑いかけながら答えていた。 「ええ、あたしも乗ってみたいわ」 ジュリーは、それをじゃましようというより、ちょっと心配になったらしく、口をはさんできた。 「セイリング? この季節に? 湾は氷のようになってるわ。ディナーかなにかにしたら?」 彼は、彼女の言い分に反発した。 「そうだね。それもいいと思うよ。でも、僕の船は大きいから、濡れることなんて絶対にないんだ」 そう、あたしは、まる一日、彼とデートするんだ! セイリング、それから、あたしの家でディナー。 ジュリーは、あたしをどこに陥れたいの? あたしは、あたし自身をどこに連れていこうとしているの? この暴走列車を発車したのは、たぶん彼女だ。でも、エンジンの火に燃料を注ぎ込んでいるのは、僕のようだ。 「電話番号を教えてくれる? 詳しいことは、電話で話そう」 彼が提案した。 彼に、プライベートのナンバーを教えながら、僕は、混乱の中にいた。いや、僕の頭の中は、つなぎ忘れたヨットみたいに、漂流していた。 ジュリーが僕のひじを持ってせき立てた。そして、僕らは、スティーブを残して、プライベートブースをあと後にした。そのハンサムな顔の微笑みは、光を発しているようだった。 家に帰り着いたときには、僕は、混乱に翻弄されつくして、ぼーっとしていた。 僕は、その信じられないようなヒールで、ほとんどなんの苦労もなく歩いているのに気がついた。高揚する感情が僕を浮かび上がらせ、脚の痛みも感じさせないようだった。 家に入りベッドルームに到達した時、僕は、次になにをしたらいいのかもはっきりせず、頼りなく立っているだけだった。 僕は、この目を見張るような夜を終わりたくなかった。でも、すてきなドレスを着つづけていることに、どんな理由もなく、どんな言い訳もできなかった。 「ジョイ、ディア、ジッパーおろしてくれない?」 ジュリーは、僕の夢想を穏やかに中断した。 僕は、無意識のうちに優雅に歩き、彼女の後ろにまわって、爪がじゃまなのにも気づかないうちに、ジッパーをおろしていた。 ジュリーは、僕の体の上で、指をあちこち動かした。と、あっという間に、僕のスカートは脚を滑り落ち、ブラウスは腕をずり落ちた。 僕は、布地の水たまりから一歩出て、床に落ちきれずにいたブラウスを、腕からはずした。 「その服を、そのまま置いとかないでね」 とジュリーは命じた。 「繊細な生地は、あなたがジーンズやTシャツにしてるような虐待に耐えられないんだから」 ジュリーが自分のパンプスを脱ぎ捨てても、僕は、自分の高いヒールをとろうとしなかった。 僕の足首にとってつらいときが来てしまった。僕を形づくっていたコルセットと分かれるときも。それでまず、僕は、しゃがんで、スカートとブラウスを拾い上げ、注意深く、クローゼットの僕のハンガーに吊した。 僕が振り向くと、ジュリーは、じっくりと査定でもするような感じで、僕の方を見ていた。 「どうやら、まちがいなくあなたにはもっとたくさんの服が要りそうね」 彼女は考えていた。 「私、あなたが、これを本当にやり通すとは思ってなかったから、衣裳一式しか用意しなかったの。あなたが、そうしてくれてうれしかったけど、あなたが次になにを着るかっていう問題が残っちゃったわね」 彼女は、僕のサンダルを脱がせるためにひざまづいた。足がふたたび、床にぴったりとついたとき、僕は、悲しみと安堵感がごちゃ混ぜになったものを感じていた。 部屋の中を見渡すと、その悲しみはさらに増した。この世界は、背の低い人間の風景に戻っていた。その靴のエレガントな美しさを別にしても、僕は高い方が好きだ。 つづいて、ストッキングが、あっという間に――取り残された僕の感覚にとっては、あまりにあっという間に――おろされた。それから、ジュリーの指が僕の体をまた忙しく動き、彼女が編み上げをゆるめられるように、僕は向きを変えられた。 緊張は和らいだけれど、まだ、それが完全にははずれないうちに、彼女は僕の肩を優しく押して、向き直らせた。そして、小さなフックをはずし、前の曲線に沿ってファスナーをおろした。 ウエストを押しつぶすような圧力がゆるんだことで、ふたたび深く息をする機会が訪れたが、僕は、安堵感とともに、打ちひしがれるような感じを持った。 コルセットに強制された直立の姿勢を失ったとき、僕は、自分の体がたるみ、魅力的でないと思っている猫背に戻ったのを感じた。 僕は、いつものだらしない感じに見えるのだろうか? ジュリーは、僕を実物大のバーピー人形のように扱って、なにも言わずに、僕を脱がしていった。足を持ち上げたり体をまわしたりという、少しでも神経の集中や力のいるアクションも要求しなかった。 彼女は、僕を化粧台に連れて行き、注意深くウィッグをはずした。これは、心臓をえぐられるような、本当の痛みと、本当の喪失感を味わうことだった。 生まれつきの女の子は、彼女の服は脱げても、髪をとることはできない。 髪を失うことで、容赦なく、痛ましく、僕は男の世界へ引き戻された。 今や、僕は滑稽にしか見えなかった。巧みにメイクされた顔、繊細なピンクのキャミソール、男の髪型と男の体。 どの部分がそぐわないのか? ジュリーが僕の顔に、リムーバークリームを塗った。そして、化粧水やその他の夜用の基礎化粧品を。 彼女はこの作業を進めながら、話し始めた。正しいスキンケアのために必要なことを教えてくれたのだ。でも、僕にはある程度しか耳に入っていなかった。逆方向への変身で、僕が感じていた悲しみは、コントロール不能な爆発となって、僕を脅かした。僕は、手に顔を埋めて、泣き出したかった。 ジュリー、尊大なるジュリー、この混乱の上に、この悲しみの上に、かみそりの刃のようなコントロールを置いてくれないか。僕が歩く練習をしたときのように、僕が女としてナチュラルな声を出すよう注意したときのように。 からかわないで。同情しないで。けっして非難なんかしないで。 彼女は、スキンケアのテクニックの詳細について、それが、うんざりするようなことではなく、重要なことなのだとして、話しとおした。 もし、僕が、たぶん正しいやり方だろうその処方とともに育ったのなら、僕は、それがうんざりするようなことだとは思わないにちがいない。 僕が徐々に正常さを取り戻すと、僕はやっと、それが僕を落ち着かせるための彼女の戦術だったと気づき、彼女に感謝した。 僕のフェイス・ケアを終えると、彼女は僕の肩から、優しくキャミソールを脱がせ、立ち上がった。 「オーケー。ネグリジェの時間よ」 まったく当たり前のことのように、彼女は言った。 「でもまず、まともなパンティが要るわね。あなたのヒップなら、私のでうまくフィットすると思うわ。股のところは、ちょっときついかもしれないけど。今夜はこれにしましょ」 彼女はそう言うと、ふちを繊細なレースであしらった淡いブルーのビキニパンティを手渡してくれた。 僕は、革ひもの下着を脱ぎ、そのパンティをとって、僕のすばらしくなめらかな脚を通した。見ると、彼女は、この下着とマッチした淡いブルーの長いネグリジェを持っていた。 彼女が、それを頭からかぶせてくれた。それは、僕の足までなめらかに落ち、その美しいネグリジェ姿は、僕に、細くて堅いウエストを思い出させた。 ネグリジェに埋め込まれたブラのカップがからっぽなのは、鋭い失望だったが。 そこで、彼女のバーピー人形遊びはすべて終わった。 ジュリーは、僕の体に腕をまわし、暖かく抱きしめた。 「ダーリン、今夜私のためにしてくれたことに感謝してるわ」 まるで、僕がむしろ好意でしたかのように、彼女は言った。 「もう、寝ましょ。朝になったら、私たちは、これからどうするのか話しましょ。オーケー?」 家へ帰ってきてからというもの、彼女は僕を人形のように扱ったが、その人形という以上に、僕はぼーっとして、なにも話していなかったことに気がついた。 しかし、彼女の直接的な言葉が、僕の高性能プロセッサーをふたたびスタートさせた。そして、僕の抱擁は、彼女のそれに自然に応えた優しいものから、激しく必死なものに変わっていった。 僕は彼女の完璧な唇を見て、そして、強く、熱く、強烈に、僕のそれを重ね合わせた。 「ああ、ジュリー、愛してるよ。こんなにも」 やっと唇を離すと、僕は言った。 「僕は、自分がこんなことが好きだなんて、考えてもみなかった。つまり、君と会って以来ずっと、僕は君に、すべてに関して借りがあったってことだ。それなのに、今夜、僕は借りを返すどころか、ジョイを発見するために君に助けてもらったんだ」 喜びをともにして、彼女はにっこりと笑っていた。しかし、すぐにくすくす笑いに変わり、こう言った。 「ええ、そうね。これから、何度も、何度も何度も、ジョイしましょ」 「約束だよ」 僕は、彼女に笑い返した。まだ、現実の享楽のためには、いささか混乱がつづいていたが、呆然とした状態からは抜け出すときだ。 彼女は、ベッドの準備をするために、僕をトイレに行かせた。 僕が出てくると、彼女は、ベッドカバーをめくり、僕はその中にすべり込んだ。彼女は、そのサテンのネグリジェの官能的な感触を楽みながら、気持ちを高めていった。灯りを消し、そして、二人はひとつになった。 僕らは、お互いの腕の中で眠りに落ちた。二人は、これまで以上につながっていた。肉体のつながりよりずっと。ずっと大事な部分でつながって。 翌朝、ジュリーはいつものように、僕より先に目を覚まし、僕がまだ寝ているうちにシャワーをすませていた。 彼女は、陽気に「おはよう」と言って入ってくると、僕の体からベッドカバーを引き剥がした。美しいブルーのネグリジェが、露わになって輝いた。 「さあ、起きて、ジョイ」 彼女は、言った。 「私が最初の商談に出かける前に、あなたの準備をしとかなきゃいけないでしょ」 そんなに眠い状態でも、どうやら、そのネグリジェは、僕に、いつもならしているにちがいない不機嫌な態度をとらせなかったようだ。 そのかわり、僕は、優雅にベッドから脚を滑らせ、「つま先をそろえ、わずかに内股にする」動作で、立ち上がった。 僕がバスルームに行こうとすると、ジュリーは僕に、ひげ剃りとその他の毛の処理を思い出させた。今朝は、脱毛クリームまでは必要ないようだったが。 結果として、いつもより長くかかってしまったが、僕は、一刻も早くベッドルームへ戻りたいという思いでそれを終えた。 ジュリーのデニムのスカートが出してあった。昨夜着ていたのよりは長いけれど、僕の膝を隠すよりは短いようだ。それは、ずいぶん細身のデザインで、僕の脚にはぴったりとフィットするだろう。 彼女は、上着として、軽い素材のタートルネックセーターを選んでいた。濃い青色で、彼女の瞳にはマッチするけれど、僕にはちょっと濃すぎる気がする。でも、彼女が僕にあの美しいウィッグをつければ、いい感じになるかもしれない。 ベッドの上には、彼女の幅広の赤い革ベルトも置かれていた。その隣には、昨夜履いていたのと同じ高くて赤いサンダルもある。例の地獄の‥‥すてきなコルセットもあった。 「私、少なくとも二日間くらいは、あなたがこのコルセットを試すいいチャンスだと思ってたの。だから、ストッキングだけは、何足か用意してたのね。このブラつきのキャミソールは、ストラップさえあなたに合わせて調節すれば、私のが着られると思うの。あなたの‥‥バストラインに。でも、靴だけは一足しかないのよ。ごめんね」 明らかに申し訳なさそうではなく、彼女はにっこりと笑った。 彼女は話しながら、そのキャミソールを僕に手渡し、話し終えたときには、ストラップの調節を終えていた。 「うーん、これじゃ、まだ、おかしいわね。そうだ、いいものがあるわ」 ジュリーは、考え込んだ後、ふたたび、バービー人形遊びに夢中になっていた。 彼女は引き出しまで行って、パンティストッキングを二足取り出した。 彼女は、それらを丸めて、キャミソールのトップにすべり込ませ、そこにふくらみをつくった。昨夜僕が着ていたAカップキャミソールより大きい、彼女のCカップに合わせて。 それは、まだ、下準備でしかなかった。その後には、コルセットのパワフルな編み上げで、僕のウエストを細いサイズに戻すというメインイベントが残っていた。 もう一度、彼女は、僕をがっちりと直立した姿勢に絞りあげた後、ストッキング(今度はきつね色だ)を履くのを手伝い、新しい革ひもの下着を手渡し、それから、高い靴のストラップを結んだ。 その竹馬にふたたび乗ったとき、僕はよろめいてしまった。昨夜の実習レッスンで得た感覚を忘れていたからだ。でも、彼女が化粧台に行くように示したときには、僕は、もう難なく歩いていた。 彼女は、今度は、やっていることを説明しながら、また魔法を使った。でも、僕が吸収できたのは、そのうちの10パーセント程度だろう。 僕の顔を彼女が気に入るところまで仕上げるのに、20分以上はかかった。昼間にふさわしく薄化粧気味だったのだけれど。 彼女が、僕のソフトに流れるウィッグを出してきたとき、僕はやっと、受動的な状態から目を覚まそうとした。 「髪の毛は、手を出さないでいいよ。ウィッグは、僕にやらせて。君は朝のカーラーの時間をとらなきゃいけないだろ」 「まだ、だめよ」 彼女は、笑いながら言った。 「あなたが、これのために、早起きするならオーケーよ。これは、相当いいウィッグだけど、この形を維持するためには、たぶん、サリーのところへ持ってかなければならないでしょうね。それも、かなり頻繁に。だけど、何日間か長持ちさせるのに、そんなにケアが必要なわけじゃない。特殊なブラッシングをする以外にはね」 彼女は、僕の肩に長い金色の髪をたらすと、キャップの位置を慎重に調節した。 最後に前髪にちょっと手を入れ、僕は、もう一度、美しいジョイになった。まだ、きついコルセットと、きらきら光るストッキングの下着姿だとはいえ。 彼女の手招きで、僕はベッドのところまで行き、そのぴったりしたスカートをはいた。 それから彼女は、折り返し襟のタートルネックから髪の毛を出すのを手伝い、ジッパーをしかるべき位置まであげた。 赤いベルトが、赤いサンダルと程良いバランスを醸し出した。そして、僕は、これで完璧だと思った。 「まだよ。そのままにしてて」 彼女がそう言った。そして、イヤリングとネックレスと香水が加わった。 彼女は昨夜と同じ透明の指輪を渡してくれた。そして僕は、鏡の前に立った。輝かしく、生き生きとした‥‥人生の始まりだ。 僕は、昨夜さんざん苦しめられたのと同じ悩ましい呼吸をしていた。でも、そのすべてが――ほとんどはそうであるにしても――コルセットのせいではないのかもしれない。 「まあ、もう少し買いそろえるまで、それでがまんしてね」 ジュリーは言った。 「がまんは確かだね。このコルセットは、人殺しだもの」 僕は文句を言った。でも、目の中に踊る微笑みは、喜びを露わにしていた。 ジュリーが手を伸ばし、僕の武装したウエストを突いてきた。 「まるでドラムね」 彼女はにっこり笑った。 「だけど、もう少し、あなたの体型を補正するいい方法を考えなきゃね」 「たしかに」 僕はそう言って、鏡の中でちょっとだけ横を向き、エレガントな手で、体の線をなぞった。つめものをした胸のふくらみ、ほっそりしたウエスト、平らな下腹、そして‥‥ 「あーっ」 僕は、顔をしかめた。今度のは重大問題だった。 声高な主張ではないにしても、タイトなスカートの前の部分には、疑いもない出っ張りがあったのだ。 「あっ」 ジュリーも、僕の気がかりなことに気づいたようだ。 「それ、なんとかしなきゃいけないわね」 「そうだよ。なにか考えがあるの?」 僕は、彼女を横目で見た。 「今は、まだ」 彼女は笑った。 「私、もう行かなきゃいけないから。手を打たなきゃいけない問題だけど、今は忘れて、ピュアなことだけ考えときなさい」 「だって、こんな格好で? 今の僕にピュアなんて当てはまらないだろ」 「実際の話、小さなことだけ除けば、そう、ほんの小さなディテールをのぞけば、あなたは本当にピュアで、無垢な娘に見えるわよ。スティーブがあなたに惹かれた気持ちが分かるわ。あなたは女ギツネっていうだけじゃないわ。なによりスイートで、処女のようよ。誰もがブロンドに描くファンタジー、それも、不良タイプじゃなく、隣の女の子タイプの。さあ、行かなきゃ。私がいない間、うまくやるのよ」 彼女は大急ぎで出ていった。それで、僕はキッチンへ行き、朝のコーヒーを飲みながら、考えをまとめた。 外出はできないだろう。 昨夜は、大胆に、うまくやれたと思うけれど、このふくらみは、僕にリスクの大きさを思い知らせている。それに、ひとりの冒険なんて、まだ無理だ。ましてや昼間は。 それに第一、僕には、しなければならない仕事がある。それで僕は、書斎、つまりごった返している穴ぐらに入りこみ、仕事を始めた。 少なくとも、始めようとした。 でも、その壮大な爪をつけていては、愚かなコンピューターに復帰することは無理なようだ。 そもそも、僕はもう、その爪自体を信用してはいなかったけれど、電源部のオン−オフ・スイッチのへこみにさえ、指を入れることができないのだ。 その問題は鉛筆が解決してくれたが、手をキーボードにのせると、文字通り、キーの上に指を置くことさえできなかった。 たとえ、慎重に、爪をキーの間に置いたとしても、僕が実際にタイプしようとすると、それはすぐ引っかかってしまう。 手首用の台のようなものに手を固定しても、うまくいきそうにない。 僕は、ジュリーに長い爪を納得させるこの試みの間、今のプロジェクトを延期できないかなどと考えて、ほとんどあきらめかけていた。と、その時、無意識のうちに、僕の爪の先が、キーの上を軽く突くような形になった。 キーは押され、僕の爪は傷ついていなかった。 僕は、そんなテストをすることにまだ半信半疑だったが、少なくともやってみようと思った。 僕の手首を少し持ち上げるためにパッドをあてがい、本物のキーボードより1インチ高い位置の幻のキーボードをたたくようにしてみた。 指の角度には問題があったが、まったくできないというわけではなかった。スペースバーだけは、それでできたので、親指の腹を使った。 それは、僕のペースを落とさせたし、僕がサイバースペースで生きていくのに必要なスムースな流れは望むべきもなかった。でも、スペンサー工業への侵入のむずかしい部分は、徹夜した晩に終えていたので、今は、型どおりの系統的な繰り返しだけでよかった。 それで僕は、別のツールの調達を思いついた。僕は、運転免許事務所に入り込み、ジョイ・コナーズの記録を作ってしまった。年齢は、僕のよりちょっと少な目にした。 デジタル・カメラを使ってジョイの写真を撮り(あたしって、ほんとにかわいいと思わない?)、僕自身が使う運転免許証を、白紙のプラスチックカード(どこで手に入れたかなんて、聞かないでね)に、プリントアウトした。 もし、州のコンピューターでチェックされたとしても、それは公正なものと認められるはずだ。 同じ方法で、僕は、マスターカードのファイルをゲットした。ホログラムが埋め込まれているから、このカードは偽造できなかったけれど。 でも、ジョイ・コナーズのアカウントをつけ加え、僕が、僕自身のカードを使っても、許可されるようにした。 それは、別に、誰かに損害を与えることじゃない。 最初のフラストレーションを過去のものとしながら、その朝は過ぎ去った。そして、プライベートな電話が鳴ったので、僕はそれをとった。 「なんだい」 僕は、素っ気ない口調でつぶやいた。 「スティーブからの電話だったら、そんなふうに返事しない方がいいわよ」 ジュリーのクリアなソプラノが、僕をからかった。 「あっ、そうね」 今の人格にふさわしいソフトなトーンに戻って、僕は笑った。 「調子はいかが?」 と、彼女はつづけた。 「悪くない。ついに指の扱い方を修得したよ。今や僕は、この州に実在する人物だよ。少なくとも運転免許用コンピューターの中では」 「そう、それはよかったわ。今日の午後は早く帰るわ。あなたが2時過ぎに家にいることを確かめようと思って電話したの」 「問題ないさ。僕がどこへ行くっていうの?」と、僕は問い返した。 「どこでも行けるじゃない。なぜ運転免許証をセットアップしたの?」 僕は、本当にそんなことを考えてたわけじゃない。 この個人情報の偽造は、僕が正当に認められた潜入をしているときと同じように、ふだんどおりのことをしたまでだ。 僕が、そのちがいをはっきりさせようと黙ってしまったので、それが、電話の向こうの新たな笑いを誘ったようだ。でも、ジュリーは「じゃあね」と電話を切った。 その考えが、僕に、スペンサーの仕事を完成させるためのプランをひらめかさせた。 彼らは、ビルのセキュリティに、コンピューターで管理されたバッジ読みとりシステムを採用している。 僕は彼らのシステムの中にニセのIDを設定し、取締役会かなにか、ハイレベルの、おそらくはプロテクトされているであろう会議に入っていってやろうと決意した。 僕は、ちょっと目立つテーブルの上に、報告書と、偽の証明書などを置き、僕の仕事の効果を劇的に提示することができるだろう。 僕がその進行中のイベントの準備をしていると、時間は2時になっていた。ジュリーの車が入ってくる音が聞こえた。 彼女が呼んだので、僕は、すべての生活の中で身につけていることになったその悲惨で美しいヒールをスイングしながら出ていった。 すべての生活の中で、僕はジョイになりきっていた。 ジュリーは、最近は余り見せることのなくなった光り輝くような笑顔で待っていた。そのことで、自己中心的で利己的だった僕への罪悪感がちょっと復活した。 驚くべきことに、女性の衣服を身につけているということでの罪悪感はまるでなかった。それは、いつでも「正しい」ことに思えるのだ。 しかし、僕が近づくと、ジュリーの笑顔は、ちょっと押しつけがましい感じになった。 「ジョイ、もう少し外観に気をつけないとだめじゃない。すぐにベッドルームに行って、顔を直しなさい」 彼女は、有無を言わせぬ言い方で要求したが、そこには愛が込められていた。 ベッドルームへ行き、僕は何がいけなかったのかと、鏡をのぞいた。 最初、僕は、なにも発見できなかった。僕の別の顔は、まだずば抜けて美しく見えた。 でも、僕の唇から輝きが消えているのに気がついた。そして、鼻やおでこも、どこかが変わっていた。目の下には、2・3個のマスカラの斑点があったし、頬も修正し直した方がいいと語っていた。 それからさらに気づいたのは、左右の色が対象ではなくなっていることだった。 コンピューターと格闘している間に、何度か頬杖をついたにちがいなかった。 何をすればいいかがわかった以上、手直しはそんなにむずかしくない気がした。 たしかにそれは、むずかしくなかったかもしれないが、とはいえ、簡単でもなかった。 僕は、もがきつづけながら、それでも、忍耐強く長い時間をかけて顔をつくっていった。長くてゴージャスな爪は、僕の目や鼻や唇や頬を突いた。それから僕は、パウダーのパフを使い、おでこのてかりをとった。 この鏡の前の化粧直しは、ジュリーがなにもないところからメイクしたのと同じ20分かかってしまった。 僕がやっとそれを終えて鏡から向き直ると、ジュリーは、ベッドの上にいくつかの新しいアイテムを並べていた。 「私、あなたをかわいそうな目にあわせようって決めたの」 彼女は、かわいそうという言葉になにかをほのめかしたにやにや笑いで、スタートした。 「明日のすてきなデートのために、あなたには、デッキシューズを履いてもらおうと思うの。彼のボートの上でとがったヒールを履くのは、いい考えとは思えないから。でも、サパー・タイムには、あなたは今のに履き替えなければいけないわ。それは、簡単なことじゃないと思うの。で、もっと重要なことは、私が、新しいコルセットを用意したってこと。それから、あなたが、台だけじゃなくて、はっきりしたおっぱいを持ってるんだってことを認めさせるなにかがいるでしょ。私は、ブレストフォームも用意したわ。それから、あなたの出っ張りにちょっとした形を加えるものもね。それじゃあ、裸になって、試してみましょ」 彼女は、話しながら、タートルネックのジッパーをおろしていた。そして、僕は、僕自身がウエストのベルトを不器用にはずしているのに気がついた。 僕がスカートを落とした時には、彼女は、僕のセーターを抜き取るために、腕を上げるように言った。 ついで、コルセットと靴とストッキングを脱ぎ、僕は、キャミソールと革ひもの下着だけの姿で立っていた。 「つづけて」 彼女が命じた。 「全部脱ぐのよ」 ジュリーがキャミソールを肩から引き上げ、僕は下着を脚までおろした。今やすべすべに脱毛されている僕の体に似つかわしくないその男性的機能が、ちょっと恥ずかしかった。 「じゃあ、これから始めて」 彼女そう言いながら、さっきまで履いていた下着と同じような種類の、肉色の衣服を手渡した。 「これ、なに?」 僕はきいた。 「これは、ガフっていうものよ」 彼女が説明した。 「それで、タイトスカートをはいても、あそこは目立たないはずよ」 履いてみると、さっきまで履いていた小さな下着よりさらにそれはきついものだった。 それが所定の場所に納まると、あのコルセットよりもっときつく、僕の親しみある敏感な場所が締めつけられるのを感じた。 ひどく気分が悪い。そして僕は、どうせ使うなら、コルセットの締めつけの方がいいと思った。 「次ね」 僕が気持ち悪がっているのを気にもとめないで、彼女は言った。 彼女は、その手に、ふたつの肌色の物体を持っていた。その物体は、見慣れない感じで細かく揺れている。 「私の顧客のひとりはドクターなの」 彼女は、そう説明した。 「彼は、私に乳房切除手術をしているところを教えてくれたわ。これは、そこで取り扱ってる最高級のものよ。私と同じCカップにしといたわ。それでいいでしょ?」 そのことを議論するには、あまりにも衝撃が大きかった。彼女は、僕をベッドの方に押しやり、そこに寝かせた。 彼女は、そのフォームのうちのひとつの底の部分に、なにかをクリームのように塗って伸ばし、それを僕の胸に慎重に置いた。 永久に勃起しつづけている乳首の形が見えた。 フォームのふちは、ほとんど見えないくらいの薄さで、羽のようにひらひらしていた。彼女はそれを慎重になじませた。 それは、どんな継ぎ目も残さずに、僕の皮膚と混じり合ったように見えた。 色も、恐ろしいほど完璧に、見分けのつかないものだった。 「その先生がくれた外科用の接着剤を使ってるのよ」 彼女は、もうひとつのフォームを貼り付けながら、説明してくれた。 「剥離剤を使うまでは、たとえ泳いでもとれないそうよ。下の皮膚の呼吸のためには、少なくとも1週間に24時間はとっておかなければならないって、先生は言ってたわ。でも、私たちは、夜、それができるでしょ」 2・3分のうちに、もうひとつの方も、つけられ、ジュリーは、僕に、立って鏡のところまで来るように言った。 昨夜、僕が、逆方向の変身をしていたときの記憶がこみ上げてきた。 あの時は、男の体の上のメーキャップとキャミソールという不統一に、苦痛を感じた。 でも今は、僕の男らしさはガフの後ろに隠され、僕はそこに立っていた。ガフは、かわりに、女性の優しい丘を形づくっていた。 僕の胸は、豊かで形よく、濃いバラ色に縁取られた大きな乳首が、アクセントになっている。 信じられなかった。 僕は、完璧な女性に見えた。‥‥だろうか? なにかが、まだ足りなかった。でも、なにが問題なのかよくわからなかった。 しかし、ジュリーは知っていた。 「じゃあ、魔法を完成させましょ。コルセットは、前のより短いのよ。これであなたは、普通のブラがつけられるわ。それに、コルセットは、ヒップにもかからないの」 彼女がさしだしたコルセットもヌード・カラーで、僕の肌よりちょっと明るいくらいで、ほとんどちがいはなかった。もし僕がシースルーのブラウスを着ても(いつ?)、見分けがつかないほどのコントラストしかなかった。 しかし、すぐわかったのは、それが、前のと同じくらいきついということだった。 僕の背骨がおへそとこすれるまで、まあ、少なくとも僕がそう感じるまで、彼女はそのひもを引っ張った。 しかし、それは、実際、短くて、少しは体が曲げられることがわかった。 次に彼女は、きつね色のパンティストッキングを手渡し、どうやったら引っかけることなく履けるかを示した。 なめらかになるように限界まで伸ばすと、それは、コルセットの裾の上まできた。 彼女が、薄桃色のデリケートなレースのブラを着けてくれた。そして僕は、僕の‥‥乳房のウエイトが、肌の上から肩のストラップへ、驚くほど移動するのを感じた。 その下着の効果だというのがよくわかった。 しかし、ジュリーが最後のファンデーションを渡してくれたとき、僕は、それが気に入らなかった。その下着は、ガードルだった。もしかするとちがうのかもしれないが、僕はそういうものだと思った。それは、つめものがされ、なんだかセンスのないものに見えたんだ。 僕は、それに脚を通すと、その広いウエストバンドを、コルセットのベースの高い位置まで引き上げ、すべてのふちを、わからないように、なめらかになじませた。 ふたたび鏡をのぞいた。 そこで僕は、なにが足りなかったかがよくわかった。 なんの助けもなければ、僕のウエストとヒップはほとんど同じサイズなのだ。 僕のウエストを数インチしぼりとっているそのコルセットと、僕のヒップの後ろにパッドをつけ加えたそのガードルで、今僕は、官能的にカーブした体型を手に入れたのだ。まるで砂時計のようなその体型ができるのに、時計は1時間半まわったというわけだ。 ジュリーはまた、他の衣裳を出してきた。 黒いストレッチパンツだった。それは、僕のウエストとヒップを優しく包み、なめらかに形を整えると、息を呑むような湾曲のすべてにぴったりと合った。 彼女はそれに、信じられないくらいソフトでふんわりした鮮やかな赤のセーターを合わせた。カウル・ネックのそのセーターは、僕の新しい胸にぴったりと張りつき、それをドラマチックに強調した。 厚くてふんわりしたソックスが、赤い女性用のデッキシューズとマッチした。光っているアクセントと赤いひもをあしらった、実際にはランニングシューズといってもいいその靴が、僕の衣裳一式を完成させた。 「それで。ご感想は?」 彼女が尋ねた。彼女はにやにやして言ったけれど、僕には僕の意見があった。 「ふーっ」 僕は、柔らかに息を吐いた。 「スカートの時より、ズボンの方が、女らしく見えるんだね。そんなふうに思ってもみなかったよ」 「もうすぐ、またスカートをはくことになるわ」 彼女は、脅した‥‥というか、約束してくれた。 「この組み合わせは、すべてのものがフィットすることがわかったわ。色もチェックしたし。あなたは、絶対に、赤と黒が似合うと思うわ。特に、脚に黒を置いたときには、青白く見えないためにね。あなたは、明日は、別の下着を着ることができる。毎朝、きれいなのが着られるように、2セット用意したの。さあ、その靴とパンツを脱いで。暑い日用に、別のも用意してあるの」 僕が、その黒いストレッチ・パンツを脱ぐと、彼女は、雪のように白いショーツを手渡してくれた。 それは、すごく細くてすごく短かった。パッドの入ったパンティがやっと隠れるくらいだ。 鏡の前に立って見ると、表面がかすかに光るパンティストッキングの美しい脚は、まるで永遠に伸びつづけるように、僕が思っているよりずっと長く見えた。 5フィート9インチという身長は、男の平均より高くはないが、女性にしてみれば高い。そして、ショートパンツを履いているとさらに高く見えるのは、輝く脚のせいだろう。 「ワオ」 僕は、また大きく息をついた。無意識に何度も観察を繰り返す。 ジュリーは、今度は黙っていた。 彼女の選んだ補正下着の華々しい成功は、僕の脚本来の長さと相まって、すごく印象的(プリティ・インプレッシブ)で、かつ、かわいい印象(インプレッシブリー・プリティ)をつくり出していた。 「オーケー」 二人共をとらえていた呆然とした夢想を中断するように、彼女がやっと言った。 「最後のアイテムは、今日、夜まで着てることになるものよ。ショートパンツを脱ぎなさい」 僕は、不本意ながら、それを脱いだ。その姿にあきらめきれないほど満足していたのだ。 それでも彼女は、僕が履き替えるように、タイトなデニムのミニを手渡した。 それを引き上げていくと、まるで第二の肌のように、僕のヒップにひったりと張りついた。それは、僕の脚の前の合わせ目の形を浮き出させるほどタイトだった。その合わせ目は、今や、パーフェクトに女性的な形だったけれど。 そのミニスカートは、僕の二本の脚を、まるでそれがひとつのものであるかのようにきつく接着させた。しかもその上、おへそのあたりまでずり上がってくる恐怖に脅かされるほど、それは短かったのだ。 「こんなの、着られないよ」 僕は不平を言った。 「いくらなんでも、きつすぎるよ」 「ナンセンス」 彼女は、笑いながら言った。 「あなたは、腰掛けるとき、慎重にならなきゃいけないわ。だけど、ゆうべは、これよりずっと楽なスカートだったのよ。長さはだいたい同じだけど、あなたが脚を曲げようとすると、これは、もっと上までずり上がるはずよ」 「もっと上まで! それじゃ、僕がこれまで身につけてきたものを、全部さらけ出すことになるじゃないか」 ジュリーは、ふたたびくすくす笑いで言った。 「まだ、全部じゃないわ」 僕が試したすべての服以外にも、まだ、開けられていないパッケージがいくつかあった。 僕がそのことをきくと、ジュリーは、これらはまた後にしようといった。ただ、非常に高い白いサンダルだけはそこから取り出された。それは、セーターを引き立たせるものだった。 彼女は、ナチュラル・グレイのバッグを手渡し、そこに僕のものを入れるように言った。 「どうして? どこかへ行こうって言うの?」 「外へよ。決まってるじゃない。あなたはもう少し、人に見られる必要があるわ」 僕は、ショックを受け、せき込みながら言った。 「昼間に?」 「そうよ。あなたは、あした、昼間に出かけるんでしょ?」 彼女は、僕が馬鹿だと言わんばかりだ。 僕も、そうだと思う。窓に明るく輝く光が、ひどく暗示的な気がした。僕は、精神的には、ナイトクラブで見つけた暗闇の中に隠れていたにちがいない。すぐに来る外出を無視して。 彼女はそれ以上のコメントなしで、僕の手をひっつかんだ。そして僕は、彼女の熱心さに引っ張られるように、近所のショッピングモールに連れ出されていることに気づいた。 僕らは、買い物をして、買い物をして、‥‥そして、買い物をした。 ソフトドリンクを飲むために、商店街のフードコートへ行き、ジュリーがやっと座らせてくれたときには、僕の足は燃え上がっていた。 彼女は、僕に、まわりの人について考えるいとまを与えないとでもいうように、急かせていた。 それで、僕には、そこまで、座るいとまもなかったのだ。 腰掛けると、そのタイトスカートはずり上がり、僕は、不十分なデニムの生地から、むき出しの脚(もちろん、パンティストッキングに覆われてはいたけれど)を見せることになった。 椅子のプラスチックのひんやりした感触が、衝撃的に僕の自覚を呼び覚ました。おそれ、スリル、そして、美しい女性であることのわくわくするような感覚を。 僕は、最初、笑われているのではないかとびくびくしながら、モールの他の客たちを見まわした。でも、まわりの人たちから送られてくるのは、それを感謝しながら楽しんでいる一瞥や、さらには凝視だった。 でも、最高だったのは、ひとりのすてきな女性から浴びせられた、あけすけな憎しみの光線だった。彼女の目はジェラシーに支配され、でも、そのことがゴージャスな彼女自身をおとしめていた。 もし、彼女が、僕のことを対等な競争相手と見なしているなら、僕は、数少ない仲間に加えてもらえたことになる。そして、もし、彼女自身が、自分のことを二番目だと見ているのなら、僕は、この商店街の群衆の中で、文字通り、くらべるもののない存在なのだ。 僕は彼女に、レディらしく、悠然と、かつ致命的な微笑を投げかけ、さらに、にっこり笑ってみせた。 彼女は腹立たしげに席を立ち、そのフードコートから嵐のように出ていった。地元チームの大勝利だ。ワンダフル! 僕の不自由な足でこれ以上歩くのは、今の靴では無理だということを認め、ジュリーは、やっと帰ることに同意した。 家に帰って、足はやっとすこし回復したが、彼女は、僕に、キッチンで、サラダの夕食の準備を手伝わせ、僕は、皿が並ぶまで休むことができなかった。 寝るまでには、まだ少し時間があった。それで僕は、もう少し仕事をしようと、コンピューターの穴ぐらへ入った。 しかし、それに取りかかる前に、電話が鳴った。 プライベートな回線だ。 この電話をかけてくるような人物は、僕ら以外にはひとりしかいない。まあ、今のところは。 ジュリーがそれを取り上げた。 僕はなんだかぼーっとして、動けなかったのだ。彼女は、明るい挨拶で応えたあと、言った。 「‥‥ええ、今、かわります」 その電話は、僕にかかってきたのだ。少なくとも、僕の中の片方に。ジュリーは、それを立ち聞きしようとするにちがいない。 電話をとる前に、僕は、コルセットが許す限りの息を吸い込み、ソフトに話し出した。 「もしもし」 「やあ、ジョイ? スティーブ、スティーブ・ゲージです」 「こんばんは、スティーブ。電話くださって、うれしいわ」 「君はまだ、明日のささやかなセイリングに、興味を持ってる?」 「ええ」 僕は、静かに言った。この非現実的なシチュエーションの中で、僕は、なんらかの正気を見つけ出す最後のチャンスを失いつつあった。 「よかった。うれしいよ。迎えに行こうと思うんだけど、10時くらいでいい?」 ジュリーは、あわてて首を振った。 彼女が、僕の耳にささやいた。 「まだ、私たちのいるところを教えない方がいいわよ。彼がさぐりまわって、私たちを見ちゃうかもしれない。本当の私たちを」 彼女は、明らかに、彼女自身がディナーに招待すると言っていたことを忘れている。でも、僕は、会話を進めた。 「あたし‥‥その‥‥明日の朝は、ちょっと出かける用事があるの。どこかで落ち合うことは、できないかしら?」 「いいよ」 彼はすぐに同意した。 「10時30分に、ベイビュー・マリーナのオフィスに来てよ。そこで会おう。道、わかる?」 これには、ジュリーがうなずいた。少なくとも彼女は、知っているのだ。 「ええ」 静かな口調で応えた。どうやら今夜の僕は、話し上手というわけではなさそうだ。 「ところで」 彼がきいた。 「お姉さんも来られる?」 ジュリーは、また首を振った。 「たぶん、だめだと思うわ」と、僕は返事した。 彼の次の言葉は、僕らにショックを与えた。それが社交辞令でなかったことがわかったのだ。 「それは残念だな。僕の友人のブラッド・ジャクソンを知ってる? 要するに、彼に君たち二人のことを話したら、ダブルデートをしたいなんて言い出してさ」 ブラッド・ジャクソンは、モンタナ・サンダーバーズのクォーターバックだ。 彼は、スティーブほどではなかったが、背が高く、ハンサムで、チームの中で二番目に女性からの人気があると見なされていた。 ジュリーは、彼女の前にぶら下がっていた機会に、ため息をついた。 すでにセイリングへの誘いを断ったのだ。でも、僕だけが見られる彼女の目の中のあこがれは、まだ通り過ぎたばかりのそのチャンスをつかまえたいと語っていた。 惨めさは仲間を求めるのだ。そして、僕は惨めに混乱していた、と思う‥‥けど?。 どっちにしても、僕は、彼女が最初にした判断を取り消すことなく、新しいオーダーをつけ加えた。 「そうできるなら、彼女もきっと来たいって言うと思うわ。こういうのはどうかしら? セイリングの後で、あなたがディナーに来るとき、彼を連れてくるの。その時は、彼女も帰ってるわ」 ジュリーは、僕が馬鹿なコースをとろうとしているのをやめさせようと、無駄な試みをし、シーッと歯を鳴らした。でも、僕は気にしなかった。 さまざまな危機も、すべてのリスクも、まださし迫ったものではない。 今は、彼女にとっても、変化のためにいっしょに綱渡りするチャンスをつかむ時なのだ。 「グレート!」 彼はそう言った。 「彼は絶対に来たがるよ」 「すてき。明日、あなたとマリーナで会うのが10時半。それで、あなたたちがディナーに来るのが、そうね‥‥7時。あたしたち、どのくらいセイリングするの?」 僕は、話をまとめようとした。 「君がしたいだけ。君が行きたいと思うところなら、どんなところへでも」 スティーブは、会話をつづけようとしている。 「そんなぁ、どんなところへでもなんて。あたしは、あなたに身をゆだねるだけよ」 僕は、僕の言っていることがどんな結果を招くのかも考えずに、口から言葉が出てくるのにまかせた。 僕は、以前にも、他の人に同じようなことを言ったことがある。でも、それはけっして性的な含みなどあるものではなかった。 でも今は、確かにそれが込められていた。そして、スティーブもそうとったようだ。 「約束だよ?」 彼はにっこりと笑った。誓ってもいい。僕には、電話を通して、彼がにっこり笑ったのがわかったのだ。 しかし、その馬鹿な、制御不能になってしまった誘惑の道筋は、僕の頭を急速にいけない方向に向けた。そして僕は、僕自身の言葉のすべてが、低く、音楽的な調子を加え、ベッドルームのトーンを帯びて語られ始めるのを聞いた。 「でも、セーリングって、あぶなくないの?」 僕は、のどを鳴らすようにささやいた。 ジュリーが、もうなにも言いたくないというように、目を泳がせた。でも、彼女の顔には、にやにや笑いも浮かんでいた。 「いいや」 彼の声も、まだ笑っている。 「そうよね。きまってるわよね。関心を‥‥そそられるに」 僕は、観察をつづけた。 「あなたは、そんなに‥‥強いんだし」 ジュリーは、笑いをかみ殺して、電話から離れなければならなくなった。 彼女は、恥知らずとでも言うように、僕に向かって指を振った。それでも、彼女の目は、浮かれて踊っていた。 「いろいろと‥‥楽しめると、思うよ。マイ・ディア」 彼は、別のラインにサーブを打ち込んだ。 「今、あなたの声、悪者の狼さんみたいだった」 僕は、彼のサーブを打ち返し、接近戦に持ち込んだ。 「約束する?」 彼は、言葉を失い、ちょっとの間、話すのをやめた。 今のは、彼が、あのナイトクラブで見た、きちんとして、上品で、親しみやすい感じの女の子とちがっていた。 いずれにしても、電話だと、僕は、せっかちになるようだ。 彼が僕に本当に興味を持ちだしたのは、彼の粗野な言葉に、僕が恥ずしそうにした後だということに、僕は気づいた。 今、僕は、彼がそんなに魅了された内気で恥ずかしげな様子をつづけてはいなかった。 たぶん僕は、彼を戸惑わせていた。たぶん僕は、彼を興奮させてもいた。 ともかく僕は、いつも彼らに憶測させつづけるように、し向けている。 しかし、それは、ほとんど僕自身の否定に他ならない。 いつも「彼ら」に推測させつづける‥‥? じゃあ、「私たち」って誰で、「彼ら」って誰なんだ? 僕にいったいなにが起きているんだ? 僕は、自分のしていることを悟って、ショックを受けていた。僕は、ただ言葉を楽しんでいるというだけでなく、本当に女性のように考え始めているのだ。そして、彼の次の言葉は、そんな僕自身を、さらに見失わせた。 「ああ、約束するよ、赤ずきんちゃん」 彼は、これ以上ないほどまじめなトーンで応えていた。怒っているふうではなく、おそらくは思いやりを込めて、明らかにまじめに。 僕がなにも言わなかったので、彼はつづけた。 「その‥‥ジョイ、君は、いったい何者なんだ?」 ショック! パニック! 彼は、なにを言おうとしてる? 数秒後には、彼は僕を殺しに来る? 僕は、彼に僕らがどこに住んでいるか言わなかったはずだ。それなのに、彼は僕の秘密を知っている。そして、僕は思い出した。どれほど大きかったか‥‥あの男は‥‥。 「なにが、言いたいの?」 僕は、声を震わせてきいた。それは完全に恐怖のせいだったが、それでも、ソフトさと気を引くような感じだけは残っていた。 彼が答えたとき、僕のパニックは、それがはじまったのと同じくらい唐突に和らいだ。 「そうだな。君は、僕がこれまで会った女性のうちで、最高にゴージャスな人だ。君はエレガントだったし、たった一度会っただけでも、僕は君の印象が忘れられなくなった。そして、君は、まったくレディらしくて上品だった。なんだかすごく無垢で、バーに来たこともなければ、男から酒をおごってもらったこともないという。ところが今夜、たった二ことか三ことで、君は僕を、息が苦しくなるほど興奮させてしまった。レディ、時に君は、世慣れていて、経験豊富に見える。べつの時は、無垢で、傷つきやすく見える。君は本当は誰なんだい?」 「女の子には、ミステリーがなくちゃだめでしょ」 彼が、僕の本当の秘密を理解していたわけではなかったことにほっとして、僕は笑いながら言った。 「君には、たしかに、それがあるね」 彼は、同意した。 「君の秘密のカギを見つけるには、どうすればいいのかな?」 「それは、あなたの考えることよ」 僕は、彼に挑戦していた。 「もし、僕がそのカギを見つけたら、ほんとのことを教えてくれる?」 「たぶんね」 僕は軽く応じた。でも、もちろん、そんなことはできない、ずっと。 「僕は、カギ探しの名人なんだぜ」 「約束する?」 考える前に、言葉が滑り出た。 彼は試合開始と同時に猛攻してきた。 「君は、僕にそうしてほしい?」 「たぶん」 僕は、さっきの軽さを取り戻そうとした。しかし、僕は、ふたたび僕自身の枠から飛び出してしまった。 僕は助けてほしくて、ジュリーを見やった。でも、彼女の目には、いたずらっぽい笑いが戻っていた。そして彼女は―― 「自分で掘った穴からは、自分で這い出しなさい」 ほくそ笑みながら、電話の向こうのスティーブには聞こえないほど小さな声でそう言った。そして、部屋を出ていってしまった。 スティーブは、僕が好意を持っているのかどうか、さまざに探りを入れてきた。 僕は、僕本来のものとはちがうファンタジーのバックグラウンドを組み立てなければならなくなった。そして、そのことは、本来の僕自身が維持できない(僕はそれを望んでる?)というばかりでなく、もちろん、アイデンティティを持てなくなるということでもあった。 彼は、僕がなにをしていたのかをきいた。そして僕は、安全なように、より真実に近い、フリーのプログラマーとしてのストーリーをつくり、答えていた。 その話から、彼自身がコンピューターの愛好家で、才能あるアマチュアであることがわかった。 コンピューターの世界に着地し、僕は、より安全な場所に立っていた。 僕は、少しリラックスし、心臓の鼓動を静めることができた。まさか、彼と、電話でそんな話をするとは思わなかったが。 ジュリーが、隣の部屋から呼んだ。 「寝る時間よ、ジョイ。あなたは、あした、フレッシュできちんとしてなくちゃいけないんでしょ」 スティーブにもその声が聞こえたらしく、彼は言った。 「あっ、ごめん。僕らは、1時間も話してたみたいだ」 「ううん、いいのよ」 その魔法の会話を終わらせたくなくて、僕は口走っていた。 「いや、ぜったい、君に来てほしいから」 彼が言った。 「それにしても、君は、驚くべき女性だね。コンピューターにそこまで強い人はそんなにいないと思うよ」 「あなたが想像してるよりはずっと、よ」 コンピューター界の女性についてのコメントに答えて、僕は言った。 「そうだね、僕が想像してたより君は明らかにすごいよ」 彼は言った。 今は、反論は控えておこう。 「君のお姉さんに、君のことをちゃんと見ているように伝えておいて」 その言葉で、彼は話を終えた。 「バイ」 「バイ」 僕は、ソフトに、でもちょっと悲しそうに返事をして、電話を切った。 ハッとして我に返り、時計を見ると、もうほとんど真夜中だった。 「僕は、どうしちゃったんだ?」 僕は、大きく息をついた。 「今後、あなたが気をつけなければ、スティーブはまちがいなく、あなたに、しちゃおうとする。少なくとも、しちゃおうと懸命になるってことよ。あなたは、その線を越えちゃったのよ、今。私のかわいい妹。あなたは、度を超してたわ」 「僕が? そうだね。たぶんそのとおりだ。僕は自分がコントロールできなくなってた。ブレーキのない暴走列車だった。僕は、僕に起こってることがよくわからないよ!」 「そうね。あなたは、女性であることがなにを意味するのか、よくわかってるわ」 彼女は、おかしなトーンで言った。ため息ではなく、勝利の声でもなく。 彼女は僕と同じくらい混乱していたのかもしれない。 いや、そんなことはないだろう。 彼女の助けを借りて、僕は、流れるようなネグリジェに戻った。(今日は黒だ。そして、僕自身に。) 彼女は、僕の人工乳房をとらなかった。でも、ガフなしで寝ることは許してくれた。それは、コルセットをとるのにも増す安らぎだった。 実際、僕は、僕の男らしさを隠すその小さな悪魔的装置を使うことに納得していた。少なくとも、不快を無視することは、僕に、つねに注意深く行動することを思い出させることにはなっていた。それは、たぶんいいことにちがいない。 次の朝も、いつものように、ジュリーが先に起きた。 バスルームを終え、彼女はいつものいらいらするほど陽気な笑顔で、僕を起こした。 彼女は朝型で、僕はそうではないのだ。 自覚が、僕の意識の中に、ゆっくりとわき出してきた時、まず最初に奇妙に感じたのは、人工乳房の慣れないウエイトと、生きているような動きだった。それで、ぞくぞくし、そして、びっくりして、僕は、なにがあったのかを思い出した。 「ジュリー」 言ってから、僕は、自分がジョイのソフトなトーンでしゃべっているのに、ちょっと驚いた。 「話さなきゃいけなと思うんだ」 彼女は、僕の表現がまじめだったことを見分け、ベッドの上に座った僕のそばに落ち着き、僕が話し出すのを待った。 「僕は、いまやってることのすべてを本気で心配してるんだ」 僕は言った。 「僕は、するべきじゃないことに巻き込まれていくような、そんな気がするんだ。でも、ここでやめるには、それは、あまりに僕をかりたてるんだよ。今朝、僕は、かなり罪悪感を感じてる。スティーブはいい人だから、もっと正直な関係に値する人だって気がするんだ」 彼女は、確信に満ちて、断固として答えた。 「いい? もし、あなたと私を除いて、だれもあなたの服の下のことを知らないとしたら、重要な意見は、あなたのものと私のものだけでしょ。私はあなたを愛してるわ。私はあなたを信頼してる。たった一回の経験は、絶対に、あなたが基本的に誰であるかを変えるわけじゃないと思うの。もしスティーブが、セックスのためだけに、あなたに興味を持っているとしたら、けっきょく彼はいい男なんかじゃないし、あなたが彼にしたことは、すべてフェアなことよ。もし彼が、あなたの性格や、あなたのルックスや、ジョイのすべてのために、あなたに関心があるんだとしたら、あなたは、あなたの輝くような性格、あなたの最高に美しいルックス、ジョイになりきることのすべてで、彼に責任を負わなければいけない。でも、彼女には、本来のあるべき姿なんて、なにもないのよ。あなたがしたいと思うこと、それがそのまま、正直なことになる。もし、失敗する唯一の可能性があるとしたら、その罪悪感がじゃまをするかもしれないってことよ。あなたの感情に正直になりなさい。あなたがいいと感ずることは、なんでもしなさい。一般社会のルールなんて、問題じゃないわ。だって、彼らは、あなたが今してるようなことを、したことはないんだから。あなたがなれる最高の女になりなさい。官能的で、魅惑的な女に。少なくとも今日は、ジェイを忘れなさい。今夜が過ぎれば、私たちがそれを楽しめる人間かどうかがわかるわ。もし、そうなら、たぶん、しばらくは、ジョイは居つづける(「喜び」が存在しつづける)でしょうね。もしそうでないなら‥‥。そこが、限界なんじゃない?」 「‥‥ふーっ。ちょっとした講義だったね」 彼女が言ったことを咀嚼する間があった後、僕は言った。 「ダーリン、君がどういうことで悩んでたか、よくわかった気がしたよ。僕もドレスを着るようになってずっと、それを考えてた。でも、もう、うまくいくよ。僕を信じて」 僕は、うれし泣きをこらえながら、微笑んだ。 「ああ、ジュリー、君って、すばらしい人だよ」 僕は彼女を抱きしめた。僕の新しいおっぱいがちょっとじゃまになったので、くすくす笑いながら。 彼女も笑い、それから、流れるように歩き、僕の手を引いた。 バスルームに入るとき、彼女は、僕のお尻をエレガントな黒いネグリジェ越しに、軽くたたいた。そして僕は、肩越しに誘惑の視線を送りながら、お尻を小刻みに揺らした。 僕らがどこに行こうとしているかは、まだわからなかったが、僕の罪悪感は、通り過ぎていた。 戻ると、彼女は僕のために服を並べていた。予報では、その日は晴れだが、涼しいということだったので、僕は、ショーツではなくストレッチパンツをはくことにした。 今やおなじみの日課となったコルセットの刑が科され、僕に直立することを強制し、適切な姿勢を得たことだけが慰めとなった。 その抱擁には、プライドを持って臨まなければならない。そして、その姿勢は、僕の精神的なイメージを、確信ある状態にすることで誇り高いものとする。 ジュリーはブラを手渡し、僕は、美しい爪にじゃまされながらも、なんとかそれを着け終え、背中のフックをとめた。 ジュリーにちょっと手伝ってもらって、体のまわりと、乳房のまわりの位置をなおすと、すぐに上半身は整う。 ガフは、昨日と同じくらい着け心地が悪かったが、けっきょくは、それを使う必要があることはよくわかっていた。少なくとも、今日、僕の喜びと干渉を起こさせないようにするためには。それで、僕は、そのぎごちなさを気にしないことにした。 僕は、パンティストッキングを、まるでプロみたいにうまくはいた。実際の話、なめらかに形づけられた爪は、以前の短いけれどぼろぼろの爪より、ものを多く引っかけるというわけでもない。そのスカーレットのエッジを、適切な状態に保っておけばという話だが。 ジュリーが渡してくれた、パッド入りパンティガードルは、昨日はいたのより長かった。 彼女によれば、長いデザインの方が、僕の曲線をより自然につなげるのだという。その細長いパンツをはいてみると、彼女の正しさがよくわかった。 僕の脚は、美しく、長く、なめらかな曲線を描いて、全体として、とても女らしかった。 僕は、デッキシューズを履き、しかし、カウルネックの赤いセーターを着るより前に、ジュリーはメーキャップを命じた。 僕は、すべてをまちがいなくできたわけではない。でも、かなりいい線いっていた。ジュリーは僕がまちがったところをいくつか修正させた。 「で、覚えておいてほしいんだけど」 彼女は、僕に言った。 「あなたは、自分自身をチェックする機会をつくらなければいけない。今日一日のうち、少なくとも何回かはね。私は、最高に見えないあなたなんて見たくないの」 「はい、奥様」 僕は、従順に同意した。でも、彼女に言われるまでもなく、僕自身が最高に見えるよう努力することを決意していた。 ジュリーは、最後に、そのふんわりしたセーターを着てもいいと言った。それから、金髪のウィッグをかぶせるために、ふたたび、僕を座らせた。 髪を肩の上に流すのではなく、彼女はそれをまとめ、陽気で元気のいい、大きなポニーテールに結った。 そこに、巨大な白い蝶結びのついたバンドをつけ、そして彼女は、僕が鏡でチェックできるように、立たせた。 ジョイが戻ってきた。誰よりも、息を呑むようなあでかさで。 彼女は‥‥僕は‥‥、好奇心をそそる不思議なイメージを見せて立っていた。弾むポニーテールとふわふわしたセーターによる十代の無邪気さに、華やかさの内に秘めた官能と、完璧に成熟した(つくりあげられた)体型と、洗練されたメイクが、重ね合わされていた。 コルセットによって強制されわずかに取り澄ましたその姿態は、申し出と拒否の狭間で微妙なバランスを保っているように見せながら、そのじつ、本物の男が、まじめに――あるいは、まじめなふまじめさで――あと一押しをし、自分が女だと感じさせてくれることを待ち望んでいるようだった。 もし僕が、こんな女に出会ったなら、なにもまともに考えられないほど取り乱してしまうだろう。 それは、写真でしか見られないような、より古典的なかわいらしさなのだ。 僕という人格をもとにして、そこに魅惑的な味が加えられている。まるで、まゆから出たばかりで、新しい美のスベクタクルの世界に向かって、はねを広げているかのように。 たぶんこれは、真実からそんなに遠い姿ではないのだ。 起きるのが遅い習慣のせいで、出かけるまでに、そんなに時間は残っていなかった。コーヒーを急いで飲むのが精一杯だった。それでも僕は、そのあと、鏡の前にとって返し、口紅をなおした。 いずれにしても、セイリングに行く前にたくさん食べるのは、いい考えとは言えないだろう。以前、セイリングの経験はあるにしても、もし湾が荒れていれば、船酔いしないという保証はないのだから。 僕は、僕のバッグ(有名なデザイナーの、流行のショルダーバッグだ)をつかみ、その中に新しい運転免許証が入っているのを確かめ、そして、僕の300ZXのところまで行った。 これは、ジョイとしての始めてのドライブだった。僕は、以前のようにロケットスタートをしなかったことで、僕の攻撃性が薄まっていることに気づいた。 ともかく、それはレディにふさわしくない気がしたのだ。 ジュリーが教えてくれた道順にしたがって、慎重に運転し、僕は、ベイビュー・マリーナに、ほぼ10時30分ぴったりに着いた。 駐車場に入っていくと、ハーバーマスター・オフィスが目の前に現れた。車から降りる直前に、スティーブが、そのドアに向かって歩いていくのが見えた。 突然、自信がなくなって、僕はちょっとうつむいていた。彼は精力にあふれた感じで入っていった。そして、中にいる誰かに挨拶する声が聞こえた。 気持ちを落ち着かせるために、僕は深呼吸したかった。でも、そこには、僕がいつもしたくなかった(しなくてもいいのならだが)コルセットがあった。 それで僕は、しかたなく車を降り、ドアに向かった。 近づいていくと、スティーブが、オフィスの専用個室に入ったのがわかった。 彼の長い脚が、そこの寝椅子に投げ出されたのが見えたからだ。でも彼のシャギーの髪は、壁に隠れて見えなかった。 ドアを開ける前のちょっとの間、僕は入口の脇に立ち、セーターの赤くてふんわりしたカウルネックを広げた。注意深くそれを持ち上げ、ポニーテールを覆って、一種のフードのようにした。頭全体をカバーするには短すぎたけれど。少なくとも、頭のてっぺんには達し、大きな白い蝶々結びを隠すことはできた。 そして、僕はドアをくぐった。 ハーバーマスターは、自分のデスクに座って、カウンターの方に顔を向けた。彼は、僕が奇妙なセーターの着方をしているのに違和感をおぼえたらしく、見つめてきた。でも、彼の目の中には、鑑賞している感じもちらりと見えた。 僕がカウンターに到達する前に、ハーバーマスターは立ち上がった。ちょうど、その時、スティーブが倒し掛けていた椅子の背もたれを起こした。 それが僕であるかもしれないと、彼は明確に予感したようだ。 でも、二人のどちらもが話し出す前に、僕は、ハーバーマスターに向かって、小さな女の子の声のようにかん高い、明らかにニセの裏声で呼びかけた。 「おっきな悪者狼さんに伝えて。赤ずきんちゃんが来たって」 もう僕には、スティーブ・ゲージを世界最高のラインバッカーにするコツがわかっていた(その上、壁と同じくらい無骨にするコツも)。 瞬間、彼の椅子が床を打ち、でも、その音が僕のところに届くより前に、彼はカウンターのところに立っていた。まだ立ったままのハーバーマスターは、笑いを投げかけていた。 彼が、僕のタイトなセーターを見た。そのセーターは、美しい胸と細いウエストを隠すというより、むしろはっきりさせてしまっていた。それから、彼の目は、さらにはっきりとタイトなストレッチパンツへと流れた。それは、僕の優しく燃え上がるヒップと、なめらかな脚を強調していた。 うれしそうな、どこか所有欲をうかがわせる微笑みが、彼の顔で燃えていた。そして彼は、長く、低く、臆面もない感謝のウルフ・ホイッスル(口笛)を吹いた。 口笛につづけて、このすてきな性差別主義者は、同様の、言葉にならない感謝の雄叫びをあげ、「うぉぉぉお!! やったぜ。僕のジョイだ」と言った。 赤ずきんちゃんの役を演じ終え、カウルをおろして背中に戻し、長いブロンドのポニーテールをはね上げると、すべての人の‥‥少なくともすべての男の目が僕に釘付けになった(その存在が信じられないとでもいうように)。 彼は、カウンターの角をまわってきて、僕に手をさしだした。僕は、僕自身の手がそこに伸びるのを見ながら、彼をからかった。 「あたしの狼さん。あなたって、なんて大きな‥‥手なの?」 ハーバーマスターがせき込んだ。その顔から、笑いは消えていなかったが。 感電のような衝撃が体の中を通り抜け、僕は、かろうじてスティーブが僕の手をとったことに気づいた。 以前、彼は、一度だけ僕に触ったことがある。それは、とても上品で、性的意味などほとんど感じさせない、紳士的にひじをつかむというやり方だった。ナイトクラブのバウンサーが僕の手にキスをして、スリル満点の震えを感じたこともあった。 でも、このスティーブの接触は、握手以上のものではないというのに、どうしてこんなに‥‥? ともかく、僕らは、その手を離すことなく外に出た。 僕自身の手は、エレガントな爪が見えているので、やっとその存在がわかるというほど、彼の手に包み込まれていた。爪は、陽の光を受け、ルビーのように輝いている。 僕らの指は、まるではじめてではないかのような自然さで、からみ合わされていた。そんなふうに、僕らは、彼のヨットへの道を進んだ。 そこには、少なくとも船長が60フィートはあるクルーザーが停泊していた。 2本のそびえるマストと、誇り高きバウスプリットは、それをさらに大きく見せ、僕のがっしりした同伴者と同じスケールでつくられていた。 彼は、僕を船のそばまでつれていくと、飛び移り、まだ僕の手をとったまま、渡りステップを架けた。 「ご乗船を歓迎します」 僕が乗り込むと、彼が正式な口調で言った。 「ありがとう、キャプテン・ウルフィー」 僕は、にっこりと笑った。 彼が返した笑顔には、彼の興味が狼の性格に近いものであることを明確に感じさせるまなざしがあった。でも、これは、あなたが食べることのできない種類の女の子なのよ‥‥気の毒だけど。 僕は、女の子としての見せかけや振る舞いに罪悪感を抱かない決心をしていたし、実際、抱いてもいないつもりだった。でも、僕の感情は、反対方向へ大きく揺れていきそうだった。 僕は、僕自身が、メスの配管を持った、本物の女性であったらと熱望しているのを感じていた。 また、結婚していることへの後悔と、はじめてそれを、幸せの源ではなく、幸せへの障害ととらえている傾向への小さな心のうずきを感じていた。 ああ、ためだ。罪悪感を忘れれば、しばらくは、すばらしい時が過ごせるのだ。そこにはきっと、捨てるものをあがなうだけの、得るものがあるはずだ。 スティーブは、僕が瞬間的に沈んだ表情をしたのに気づいたようだ。 「なにか、気にさわった?」 「ううん、全然。あたしがこれまで見た中で、いちばん感動的な船だわ。クルーがたくさんいるんでしょ?」 「そうだね。経験豊富な船員がいなけりゃ、外洋へ出ようとは思わないよ。何泊かしようと思ったらなおさらだ。でも、湾内だけをまわるちょっとしたクルーズなら、僕らだけでなんとかなるよ。もし君が手伝ってくれるなら、ね」 「うーん‥‥」 僕はためらい、美しいけれど壊れやすい爪を小刻みに動かしながら言った。 「オーケー。‥‥でも、その‥‥あたしに‥‥できることなら」 「心配しなくていいよ」 彼は笑った。 「君の爪を痛めるようなことはさせないよ。それは、言葉にできないくらいセクシーだもの。すばらしいよ。少なくとも、君がつけてるかぎりは」 僕は感謝を込めて笑いかけた。それから、僕らはコックピットに入った。 彼は出航準備を始め、そして、すべてが整った。 彼がモーターをまわし、ギアを入れてバックさせると、船のゴムフェンダーは、湾のかすかな流れを切って滑り出した。 2・3分の間、船は、ハーバーから湾へ出る水路に沿って前進した。 「ここへおいで」 防波堤を越えると彼が言った。 彼は僕を、クラシックな木製の操舵輪の前に立たせた。 僕がそこに立つと、彼は僕の後ろからその操舵輪を持ち、僕は彼の腕に囲まれる形になった。 でも、彼の体が、僕の体とこすれ合うことはなかった。事実、彼の腕は長く、肩は広かったので、彼は、僕の体のどこにも触れることなく、それをつかむことができたのだ。 僕は泣きたくなるほど、かっかりしていた。 「おも舵、船首を約340度に」 彼は命令した。 「セイリングの準備をしよう」 「すてき」 僕は言った。そして、腕をもう少し(もっと思いっきり!)狭めてくれたらなどと感じている物欲しそうな態度を隠すために、彼を穏やかにいじめてやることにした。 「あたし、ドライブに来ることに同意したんじゃないのよ。あなたは、セイリングする(風に身を任す)って約束したわ」 「僕は、いつでも約束を守るよ」 彼は笑い、そして、船首に向かった。 彼がメインセイルを揚げるのを見ていると、彼は、それを揚げきるまでほとんどウインチを使わなかった。 最後に、彼は一組のウインチを順に使い、ハリヤードを引っ張って位置を決め、固定した。 彼は、風を受けるのに十分なだけ、メインシートにたるみを残していた。僕らがマリーナを出た頃から、目に見えていい感じになってきた微風に、セイルははためき、しっかりとそれをはらんだ。 補助モーターがつくり出す相対的な風に、船は押し返されていたが、それは、今日がすがすがしく気持ちのいい日であることの証明だった。 次はミズンセイルの番だった。それを引き揚げるために彼がとった位置は、操舵輪の真ん前だったので、僕には、彼の薄いTシャツの中で、信じられないような筋肉が波打つのがよく見えた。 それは、コースを逸れないために注意を払おうとしている僕の、気を散らすのに十分だった。 でも、2・3分後には、彼はそのハリヤードをちょうどいい位置に固定し、ふたつのセイルは、二方位対位法ではためいた。 両方のセイルがひととおり揚がると、彼は、メインセイルに戻り、風上に向かって走るつめ開きの位置に、それを固定し直した。 彼がそれを終えたのを確かめ、僕は、その帆が、風からダイナミックでパワフルなエネルギーを受けられるように、船首をちょっと傾けた。 ヨットは、すぐに10度ほど傾斜した。それは、慣れない人にとっては、ずいぶん大きく感ずる角度だ。しかし、それも、飛び立つ鳥の自然なリズムで、すぐ安定した。 「なんだ、君はセイリングの方法を知ってるんじゃないか」 彼は非難したが、その目では、賞賛の気持ちがさらに大きくなった。 僕は顔を赤らめ、小さくうなずいた。 「僕のジョイ、君は、どれだけ僕を驚かせるんだい?」 「あなたは、あたしがどのくらい驚くべき存在か、まだ、ほんとうには知らないのよ」 僕は、にっこりと笑った。 大胆なウソには、いつだって真実が隠れているものだ。 スティーブは、ミズンシートをもう一度調整し直し、その後、すべてがうまくいったかどうか、確認した。 彼は、補助モーターを切ると、僕を見た。 「このタックの場合、どう舵取りしたらいいかわかる?」 彼がきいた。 「了解。準備完了」 僕は平然と言ったが、とんでもないミスを犯してしまっていた。僕は、それを大きな地声で叫んでいたのだ。男の声で。 「とり舵ーっ」 それでも僕は、呼令を終え、それから、船首を風と垂直の方向に向けるため、操舵輪をまわした。 まるでサラブラッドのように彼女は明晰だった。きちんと船首の方向を変え、タックと反対の方向、0時50分の方を向いた。 その目に、さらに増大した敬意をたたえながら、彼が、僕を優しくいじめた。 「このサイズの船で命令を下すには、もっと大きな声を出さなきゃいけないよ」 反射的に首を振り、僕は、ソフトで、声にならないようなトーンに固執するもっともらしい理由を見つけようとした。 「ううん、あたし、命令なんてしたくないもの」 まず僕は、海の上で高い地位を得られないことに、けっして失望なんてしていないことを伝えた。 「あたしの母は、まるで年取ったおばあさんみたいなしわがれ声で話すのよ。それにあたしは、声を張り上げると、金切り声になってしまう。あたしは、あたしの出す声に耐えられないし、それ以外の声も出せないわ。それで、あたしはずっと前に決心したの。ソフトで気持ちいい声で通そうって」 「そんなにかわいい声が、金切り声? 信じられないよ」 彼は、忍び笑いをした。 「信じて」 僕は、微笑みを、喜びを表しながらも変わらない決心を示すものに変え、この話を終えた。 彼はため息をつき、ふたたびにっこり笑った。 「ジブを揚げるべきだと思う?」 「あなたが船長よ。キャプテン・ウルフィー」 僕はからかった。 「だいいち、あたしは、どこへ行くのかも知らないわ」 「行きたいところがあるの?」 彼がきいた。その時、彼の目の中に、シリアスな感じがまぎれこんだ。 僕を試しているのだ。 「いいえ」 僕は微笑みながら言った。 「あたし、今日は、あなたの手の中にいるのよ」 その言葉に、彼は含み笑いをした。 「それが、君の約束だものね。湾のこっちの半島に、ランチを食べる場所を見つけてあるんだ。僕は、そこに座って、風景に見とれたいんだ。君もそうしてほしい」 「風景」と言ったとき、彼は、まさに僕のことをじっと見つめていた。今、見えている水平線内で、彼の目がどの風景を最も喜びと感じているか、それを、僕に知らせているのだった。 僕はふたたび顔が赤くなったが、彼の賛辞に応えるために、すばやく唇をすぼめ、空想のキスを贈った。 そのことが、彼に、目に見える反応を招いた。瞳孔が広がり、そして、彼のドッカーズ・パンツの前の部分が、信じられないくらい張りつめたのだ。 その瞬間、僕は、彼が駆け寄るではないかと思った。しかし彼は、その巨大な「船体」を風向きに合わせてセットしたまま、明らかに‥‥あからさまに、鑑賞するように僕を見つめていた。 それだけ見ていれば、僕が今、じつは彼が来ないことに落胆したのだということが見て取れたにちがいない。その証拠に、彼のパンツのテントポールは、肉体本来の正直さとともに、いよいよ張りつめてきた。 「そういえば、この豪華客船は、なんていう名前なの?」 安全地帯に‥‥というか‥‥安全水域に避難しようと、僕はきいた。 「スターリット・ナイト号って言うんだ。友だちの船舶設計士といっしょにデザインしたんだよ」 僕は、その美しい名に驚いていた。 「クォーターバック・サック号とか、ブリッツド・アウト号とかじゃないのね」 「僕は、フットボールだけの人間じゃないさ」 「そうね」 簡単な肯定だったが、それは、僕が、留保なしで彼の表明の真実を受け取ったということだった。 僕も、彼のように真実の状態でいられるのならと思えた。 セイリングをやったことのない人には、12ノット程度のスピードが、強い風の中では、モーターボートで走るよりずっと速く感じられることが信じられないだろう。 風が、細かいしぶきをあげ、ボートは波を切って、何度も跳び、揺れる。 それが気分を浮き立たせ、僕の唇に幸せの微笑みを、僕の頬に輝くバラを、そして僕の心に純粋な喜びを運んでくる。 しばらくすると、彼は新しいタックをとった。ジブを揚げない、単純なものだ。 彼は新しい風向きへの対応のために、僕の後ろを動きまわっていたが、僕は、あまり彼に注意を払っていなかった。まちがいなく航行するためのコース取りに集中していたからだ。 次の瞬間、僕は、彼が後ろから戻ってこないのに気づいた。 探して振り向くと、彼は、ミズン・ブームにもたれ、僕からほんの数フィートの場所にいた。 彼の唇の上の微笑みは、無言のうちに語っていた。 そこにあるのは、敬意だ。彼が求めていなかった技能のレベルまで、僕がやっていたことに対する評価だった。 無垢と洗練、控えめな女性らしさと実践的な知識、おとなしい態度と輝くほどの美しさ。それらが合わされた僕という存在は、常識では考えられなかった。そして、彼は、それらすべてによって惹かれているのだ。 しかし、そこにあるのは微笑み以上のものだ。敬意を越えて、かわいい女の子への評価を越えて、優しいからかいを越えて、なにかがあった。 僕は、彼が見せた優しい感情に応えて、僕自身の、適当に距離を置いて身を守ろうという決意が、揺らいでいくのを感じていた。 彼は、僕の雰囲気から、その揺らぎを感じたらしく、僕が彼の方に向き直ったにもかかわらず、ふたたび僕を包み込むようにして操舵輪に手を伸ばした。 彼は、無限に優しかった。 彼の大きな手が、操舵輪のスポークをしっかりつかんだ。しかし彼の腕は、すぐに場所を変え、僕の腕を強く握った。彼のウエストに、こっそりまわしていた僕の腕を。 僕は、自分が彼のがっしりとした顎を見つめているのに気がついた。それから、僕の視線は、さまよいながらも、彼のきりっと結ばれた唇、そして濃い茶色の瞳へと上っていった。 その瞳が、僕の瞳にまっすぐ向かっているのを、その唇が僕のルビーのように輝くそれに下りてきたのを、僕は見ていた。そして、僕は、彼に向かってそれをつきだしていた。 唇が合わされようとする、まさにその瞬間だった。風上に向けておいたセイルが、つづけざまに雷のような音をたてた。 船が、波の上で大きくよろめいた。そして、僕は、彼に向かって倒れ込んでいた。それは、やはり、びくともしない壁のようだった。 僕らは、ふたりとも、驚きの中で、きっかけを失った。そして、彼が船を立て直したときには、彼の視線も、セイルと風に戻っていた。 その瞬間は、通り過ぎてしまった。そして、しばらくの間、彼は、船を正しい状態に戻すために立ち働き、僕は、椅子にへたりこんで、はやる気持ちを抑えようとした。 僕は、満たされない思いのこもった目で、満たされない思いと痛みが混じり合った彼を見ていた。その痛みは、僕にとってもなじみのもので、僕には、彼の気持ちがよくわかった。 このすべてのシチュエーションが、僕には、急におかしなものに思えてきた。二人の大の大人が、自分たちが誰なのか、なにをしたいのか、わからなくなっているのだ。 笑うしかなかった。 「ねえ、キャプテン・ウルフィー、あなた、気が散ってるみたい。いい操舵手は、そんなふうにはならないものよ」 「適度に気持ちをそらすことは、正しいことをするには必要なことさ」 それからしばらく、僕らは、穏やかな関係の中で、航海をつづけた。今度は僕の方が、舵を取る彼を見ている番だった。 彼は、僕がこれまで会ったうちで、最も印象的な男だ。そして僕は、彼のとてつもないサイズが、スポーツ選手としての資質の氷山の一角でしかないことに気づきはじめていた。 彼の筋肉は、張りつめて輝く肌の下で、流れを形づくっていた。 彼の脚は、岩そのもので、時折いたずらな波が船を上下させるくらいでは、びくともしないのだ。 ジブが使われた不安定な帆装は、さっきまで僕に、コースを維持する努力を強いていた。 でも、彼の巨大な手は、ただそれ自身の重さを操舵輪のスポークの上でつり合わせているだけでじゅうぶんなほど、パワフルだった。 僕は、立ち上がって、なにか他のことを仕掛けてみようかと考えていた。でも、その時、彼が、僕にふたたび舵を取らせることで、そのプランを先取りした。 「引き継いで」 明確に、船長の命令だった。 「ハーバーに入る準備をしなければいけない」 僕は操舵輪を取り、彼がふたたび補助モーターに点火するまで、船首を彼のセットしたコースに保った。 彼の命令にしたがい、僕は、次には、慎重に風上に向け、彼は手早くミズンを降ろし、その後、メインも降ろした。 そのセイルをブームにくくりつけるため、バンジーロープがかけられ、それからブームは固定された。そして船は、ふたたびモーターボートになった。 彼は、舵取りに戻り、2・3分、船をうまく誘導し、桟橋の緩衝装置に優しく当ててとめた。その桟橋には、明るい野外レストランが隣接していた。 桟橋の係員たちが、彼の投げたロープをつかみ、手早く繋いだ。スティーブが僕を助けてドッグにあげようとした時、僕の手は、ふたたび、彼の体にまわされた。 僕らはまた腕をからませ、体を寄せ合って歩いた。 そこにいた知人たちに、彼は誇らしげに微笑んだ。その誇りは、彼自身の名声より、僕の存在によってもたらされているようだった。 笑顔のホステスが、僕らを陽の当たるテーブルに案内した(彼女が僕に、敬意を込めた評価をしてくれたらしいことが、うれしかった)。そして、僕らはメニューを選んだ。 僕はすぐに、自分のメニューを置いて、彼に微笑んだ。 「あたしは、あなたの手の中にいるのよ。キャプテン・ウルフィー。あたしのもお任せします」 「君は、どんなのがお好みなのかな?」 彼がきいた。 「う〜ん、いろいろ‥‥ね」 僕は彼の目を見つめ、僕が食べ物についてだけ言っているのではないことを伝えようとした。 僕のハンサムな大男は、どこか居心地悪そうに椅子をずれた。それで、僕には、彼のパンツがきつくなったのがわかった。少なくとも、ある場所において。 窮地に立たされた彼の姿は、僕自身、体に覚えのあることだったので、僕は思わず笑ってしまったのだが、彼はその笑いを、僕が自分の体の効果にほくそ笑んだととったようだ。 考えてみれば、たぶんそれは、同じことなのだろう。 この前の夜の僕の好みを覚えていたらしく、彼は、マイルド・ジンファンデルをふたつ注文した。そして、僕は、化粧室に行くことを謝った。 この日の準備をしているとき、僕は、女性用のトイレに入ることを心配していた。 もしジュリーがいっしょなら、問題が起きても、少なくとも、彼女が注意を引きつけるかなにかできるはずだ。でも、すべてを自分でやるとなれば、僕は、大きなトラブルに巻き込まれることになるかもしれない。 ところが、今、僕はそんな心配どころではなくなっている。 それはたぶん、僕の同伴者のもつ大きな力によるものだ。世評に沿って言えば、彼は、必要な時には、どこまでも暴力的になれるという。ただ、それがコントロールされているだけだ。 もし、いつか、彼が僕の秘密を知ったなら、僕は、速やかに、効率的に、なんの抵抗もできずに、死ぬことになるだろう。 それよりは、警察に捕まる方がずっとましだ。 僕は、長い時間、そこにいた。 今朝のコーヒーは、僕の体の中ですでに濾過されたようで、僕は、するべきことをちゃんとするために、パンツと、ガードルと、パンティストッキングを降ろした。 ガフが、(座っている間)それをとらずに義務を果たせるようにデザインされていたことは、僕にとって、安堵すべきことなのか、失望すべきことなのか、なんとも言えない。 一方で、2・3分、その絞めつけから解放されることは天国にちがいないが、もう一方で、無理にもそれを元に戻す気になれなかったかもしれないのだ。 いずれにしても、僕は用を足し、その後、メイクを点検するために、鏡のところへ行った。 2・3分後には、僕は、ジュリーが定義した洗練した姿に戻っていた。 僕の口紅は、一点の汚れもなかった。 ざまを見ろ。 スティーブは、根気よく待っていた。いつだって、紳士なのだ。 ファンが、彼の存在を見つけて、サインを頼んでいたり、彼の偉大なプレイについて話しかけたりしていた。 そのことで、僕は、この前の夜感じたのと同じような誇らしさを抱き、ちょっといたずらっぽい笑顔で、テーブルに戻った。 僕が近づくと、ファンたちは散っていった。 彼らが立ち去りながら話している言葉を聞いて、ふくらんでいた僕の自我は、さらにちょっと大きくなった。 「お前、彼といっしょにいたハクい女を見たか? あんなの、いったいどこで見つけられるんだ?」 「もし、お前がスーパーボールのMVPで、年間1200万ドル稼ぐんなら、簡単なんだよ」 「そんなことないだろ。俺は、あんなゴージャスな女、見たこともないぜ。つかまえることを考える前に、見つけることさえできねえよ」 「俺は、彼女の方が彼を見つけたという方に賭けるね」 「わかってねえやつだな。あの女は、誰のことも追いかけなくていい女さ。彼女のことを考えてマスかいてる男が、きっといっぱいいるんだからな」 そんなコメントが聞こえてきたので、スティーブは、恥ずかしそうに笑いながら立ち上がり、僕の椅子を引いてくれた。 「許してほしい。どういうわけか、僕について話す時、マナーを忘れる人間がいるようなんだ。どうも彼らは、フットボール選手を野生の動物かなにかみたいに思ってるみたいだ」 僕は、彼がかつて見せたプレイのいくつかを思い出して、ちょっと微笑んだ。 なぜ、彼らは、人にぶち当たってヘルメットを飛ばすようなことをやっている人間は、野生の動物(ワイルドでアニマル)だと思うのだろう? じつのところ、僕はかなりタイミングがよかったようだ。 僕が座るか座らないうちに、最初のコース、おいしそうなハウス・サラダが運ばれてきた。 僕は、ワインを口にしながら、スティーブがファンに話しかけられたときの話を聞いていた。 僕の目は一時も彼を離れなかった。彼が、その瞳の輝きを楽しんでいる間も、そして、その注目を気にしだしてからも。 しばらくすると、その注目に、彼は照れ、口数が少なくなっていった。 「君は、僕をじっと見つめてる」 彼は、そう訴えた。 「ええ」 僕は、なんの悪気もなく認めた。 「どうして?」 「理由なんて、ないわ」 僕は、ほんとのことは言わず、さらに強い視線を送り、彼の目の喜びとスパークさせた。 「鼻の頭に、サラダ・ドレッシングでもついてる?」 彼はからかった。 「ううん。サラダ・ドレッシングが鼻についてるわけじゃなくて、たぶん、あごによだれがたれてるの。それとも、あたしのあごに、よだれがたれてるのかな?」 この、僕のある場所が、なにかを求めているというヒント、いや、声明に、彼の目は見開かれた。 僕は、もっと高速なギアにシフトすることに決めたのだ。そして、ゆっくりと、官能的に、赤く燃える唇をなめた。 「あら、あたしの唇に、よだれなんてついてないわよね?」 僕はきいた。 僕の唇の真っ赤な炎と、その唇について親密に個人的にきいた言葉に、彼の瞳は熱く燃えた。その時、食事の次のコース、繊細なスープで煮込んだ魚がやってきた。 それは、おいしい料理だった。でも、悪魔のようなコルセットが、また、僕の意思をねじ伏せた。僕のお腹は、すでにサラダの時からいっぱいになっていた。 僕は、その魚を楽しめないことがわかり、そして、それを悲しみながら、つつくしかなかった。それで、僕は、このデートの逞しい相手を見つめつづけた。 彼は、その巨大な肉体を動かす燃料として、たくさんの食べ物を必要とするとでもいうように、あっという間に平らげていった。 それを食べ終わったところで、彼は、僕が少ししか食べていないことに気づいた。 「これ、嫌いなの?」 「食べたことないほどおいしいわ。でも、サラダでお腹いっぱいになっちゃったの」 「君は、鳥が生きていくのに必要なほども食べてないじゃないか」 「あたし、他に、生きる力になるものを、なにかを見つけなきゃいけないわね」 「どんなもの?」 「わからないわ。提案してくれない?」 僕は、それとなく示唆した。 彼は、彼自身どんな提案をしたいのか、しばらくの間じっと考えていたが、けっきょくは、僕のリクエストを会話どおりの意味しかなかったものとして、彼のお気に入りのレストランのメニューをのぞき込んだ。 僕はしかたなく、僕自身のお気に入りの場所で対抗することにした。彼のかっこよさにつり合うように、さっき、わざわざ化粧直ししてきた「場所」を強調しながら、外国のお気に入りの場所の話をしたのだ。僕は若い頃、ヨーロッパを放浪して、僕らしくないひと夏を過ごしたこともあるから、観光コースから外れた穴場について、もっともらしい話もできた。ただ、彼が培ってきたまっとうな知識と、むやみに対立するようなリスクは避けたが。 会話しながら、ずっとワインを口にしていたにもかかわらず、僕のワイングラスは、一度もカラにはならなかったようだ。 この店のサービスは優秀で、少なくとも一度以上は、ワインを注ぎ足していたにちがいない。でも、僕には、ワインが何度、どんなタイミングで注ぎ足されたのか、確かなことは言えない。その間ずっと、僕のクリスタル・ブルーの目は、彼の濃い茶色のそれに向けられていたからだ。 あの地獄の、すてきなコルセットは僕を圧迫し、アルコールがまわるのを防ぐ程度の食べ物もとれなくしていた。だから、店を出る頃には、その影響がモロに出てきた。 立ち上がったとき、僕は、ハイヒールを履いてこなかったのは正解だと思った。それでも、めまいの波が襲ってきたとき、僕はよろめいてしまったのだ。 「だいじょうぶ?」 スティーブがすぐに心配してきいた。 「ええ」 僕は答えた。 「こんなにたくさん飲むのに、慣れいてないだけ」 「たくさん? 君は、少しワインを飲んだだけだよ」 「慣れてなければ、少し行くのも長い道でしょ。体重が3トンとか4トンあれば、お酒も薄まるんでしょうけど」 彼は、スターリット・ナイト号まで僕を連れていき、渡しを架けた。 僕に桟橋からデッキに移らせるかわりに、彼は、巨大な両手で僕のウエストのまわりをつかんだ。ふたつの手は、僕のウエストを完全に包み込み、指が重なり合い、親指どうしが触れた。 彼は、軽々と僕を持ち上げ、ボートに移した。そして、僕のバランスがとれるのを確認するまで、足がデッキに軽く触れる状態で抱えていてくれた。 「君は、いつも、そのよろいを着けてるの?」 彼がきいた。 僕は偽りの悲しみで、ため息をついた。 「あなたによく見られたいと思って、女の子が通り抜けなきゃならないこと、あなたには信じられないでしょうね」 「僕のために、そんなことをしなくてもいいよ」 「あたしがこれをとったところを見たら、きっと、そんなこと言わないわ」 僕は、にっこりと笑った。 「じゃ、どうして、その判断を僕にさせてくれないの?」 誘惑の強さのレベルが、はっきりと上がった。 そこで、僕は、断った。 「ごめんなさい。今は、まだ」 一瞬、彼の唇に不機嫌そうな形が見えた。でも、僕が、そのテストに、ある程度の合格点を出したことで、彼の目には満足な感じも浮かんでいた。 僕は、まだ、まじめな女の子であろうとしているのだろうか? それとも、「今は、まだ」という言葉に、未来の希望をほのめかしているのだろうか? 僕は、コックピットの椅子にゆっくりと歩いて戻った。いざという時の心構えができないほど酔ってはいなかったが、彼に、少なくともほろ酔いだと思わせるように振る舞っていた。 係員がもやいをほどくのを手伝い、船はずくに動き出した。 気持ちのいい湾の風が、僕の頭をさらに冴えさせた。でも、その豪華な張りのシートに座り、僕は、うっとりと夢のような感じを味わっていた。 「もうそろそろ、戻ろうか?」 彼がきいた。 「あたしは、あなたの手の中にいるわ。キャプテン・ウルフィー」 僕は言った。でも、僕は、クッションの上にものうげに体を伸ばし、人工的に増幅された僕の体型を、彼の視線の中にさらした。 「っていうか、少なくとも、そうなりたいと思ってるわ」 一瞬のうちに自動操縦に切り替わると、ふたたび、彼を有名にしたスピードが見られることになった。気がつくと、彼は、僕の足のそばに立っていた。 その足を持ってシートから降ろすと、彼の腕は僕のウエストをつかみ、持ち上げた。その時、僕は、僕自身の腕が、彼の首に巻きつくのに気がついた。 僕の唇に彼の唇が重ねられたのがわかった。僕は、彼の情熱の前に消費され、優しい抱擁の中で、反発できないパワーが僕を包んだ。 じらされて高ぶりつづけた彼の欲望が、ついにジェントルマンであろうとする姿勢を崩壊させた。 そして僕は、女として成功を収めた。 その成功が、はたしていいことなのかどうか、まだ確信はなかったが、もうひとりの僕は、まちがいなく彼のしてくれたことを望んでいた。 僕の、女としてのファースト・キス。なんというキス! 僕には、そのキスがどのくらいつづいたのかよくわからなかったが、その間、僕は、意識も感覚も、まったくひとりの女だった。 その巨大な抱擁の中で、僕は小さくて優美だった。僕は保護され、そして支配されていた。 女にすれば大きいけれど男なら平均の僕の体は、彼の偉大なサイズの前で、平均的な女性のように感じられた。 まず最初に、僕は、それが圧倒的な強さへの屈服であることがわかった。そして、女性の恐怖と欲求がいかに大きなものかを理解した。 しばらく女性として暮らすことで、ジュリーのことがより理解できるようになるという彼女の意見は正しかった。 今や、僕に残されたことは、この旅を逆にたどって、男に戻るだけだ。 僕は、それを望んでいた。本当に‥‥望んでいる‥‥のか? すこしすると、彼が頭を持ち上げて、船のコースをチェックした。 僕の唇は、離れていく彼の唇を追おうとしたが、届かなかった。 そのかわり、僕は、頭を彼の肩にもたせかけ、しばらくの間、しがみついていた。僕の足が、中空で楽しそうに踊っているのも気にならなかった。 それはべつに、この場にそぐわないことじゃない。あらためなければいけないことなど、なにもない気がした。 「僕のジョイ、君はセイリングしたいんだよね」 「えっ、‥‥ええ」、僕らがどこにいるかという自覚に引き戻され‥‥、「そうだった‥‥」、それをセイリングの途中でやっていたんだと認識し‥‥、「‥‥わよね」、僕は失望した。 その失望が、僕の気もちの大部分を占めていたが、ときめく感情を押さえ込むには、もう少し時間がかかるのもわかっていた。 「了解、キャプテン・ウルフィー」 僕は、ふたたび操舵輪の前に立った。 僕は、自動操縦をはずして、彼が、今朝やっていた動きを繰り返すのを見ていた。彼はまずセイルを揚げ、もとの位置に戻した。 今度は、口笛によって命令を下すこともなく、装備を調えた後、彼は船首へ行き、大きくふくらむゼノア・ジブを揚げた。面積では、メインセイルより大きいようだ。 それは風を受け、大きな音をたてた後、彼がジブシートを引っ張るまで、ばたばたとはためきつづけた。 彼がそれをしやすくするため、僕は、ゆっくりと船首を上げていった。そして、彼がセイルをどうセットしたらいいか判断できるように、程良い位置まで船体を沈めた。 その巨大な船首の帆をピンと張るためには、今度は、彼もウインチを使わざるを得なかった。とは言っても彼は、片手でシートを持って自分の方に引き寄せ、もう片方の手だけでウインチのクランクをまわした。 そのジブシートが張られることで、船は加速度をつけてスピードを増した。 まるで、野生馬がなにかに憑かれてあっという間に逃げ去るように、あるいはただただ暴れるように、そのパワフルな帆に引っ張られたスターリット・ナイト号は、ひたすら前に突き進んだ。 僕は、これまで見たこともないほど大きく、また、この湾の水上でも最も大きいだろうこのヨットの舵を、たったひとりで任されていたのだ。風と波のコンビネーションがかわり、セイルと船体に加わる力のバランスが変化するたびに、僕は舵取りに必死になった。 僕の視線は、セイルを見上げたままで釘付けになり、マストヘッドが語ることを読みとろうとしていた。だから僕は、スティーブの腕が僕を包み込むようにして操舵輪のスポークに伸びてくるまで、彼が背後に来ているのに気づかなかったのだ。 僕はほっとして船の操縦を彼に引き渡し、体を後ろにもたせかけて、彼の抱擁に甘えた。 僕自身の腕を彼の腕の上で休ませ、そして僕は、NASAが作ったどんな装置より安全な、心の安まるゆりかごの中にいた。 船をコントロールする責務がスティーブに移った今、僕はリラックスでき、ただこの感覚を楽しめばよかった。 船は、波と共にはね、揺れた。波は風のタッチに対抗してくさびを打ち込んだが、その力は制御され、けっして戦いあうことなく、僕らにエネルギーを送ってくれた。こんな調和した感覚は、モーターボートではけっして味わえないだろう。 スティーブはそれをよくわかっていて、僕にこの調和を見せてくれたのだ。彼自身の喜びの笑顔とともに。そして、単なる空気以上のものを吸い込んでいる彼自身の呼吸とともに。 もちろん僕は、それと同じようには呼吸できないのだが、彼の気持ちになって、それを楽しむことはできた。そして、彼の腕の中で守られているという感じを楽しむことも。 でも僕は、彼の肩に頭をもたせかけることはできなかった。船はまだ飛び跳ねていて、僕を守るために、彼には多くのエネルギーが必要だったためだ。 それでも、スティーブはもちろん、くらべるもののないほど壁そのものだった。 そして、そのことが、ある問題を引き起こした。 もし、彼の体が、僕のと同じように、揺れる船からなんの作用も受けなかったなら、僕らはもう少し、そんなふうにしていられただろう。 頭を彼の体に預けることができなかったほど揺れていたにもかかわらず、僕は、彼の体にもたれかかり、そのクッションの柔らかさで衝撃を和らげることができていた。 まもなく僕は、その柔らかさが、おもに僕の側のものであることに気づかされた。僕らの体がこすれ合うことで、ある堅いものを生じさせてしまったことが、張りつめたガードルを通して伝わってきたのだ。 センシティブになっている僕の気持ちは、なんと、それをいやがっていなかった。それどころか、自然の波が強いる揺れを増幅させ、僕自身をそれにこすりつけていた。ちょっとエロチックな気分になって、その力強い男から得られる行儀の悪いパワーを楽しんでいたのだ。 彼は、長い間、肉体の力強さと同じだけの自制心の強さを示しつづけたが、ついには、それをまぎらすために、なにかをせざるを得なくなった。 「タックを変えよう」 彼は命じた。 「舵取りをかわって」 それで僕は、そのスポークをしっかりと握り、彼は離れていった。彼はほっとし、しかし、がっかりしていた。 彼が、セイルの止めのところまで行ったとき、僕は、輝く唇で、ソフトに言った。 「とり舵ー!」 その声では彼に聞こえないこと、ふだんの声の方がよく届くことはわかっていたのだが。 彼は、帆を反対側の舷縁まで動かし、スターリット・ナイト号の船首のボウスピリットは風を切って向きを変えた。 長年の実践による技術と、くらべるもののない力強さで、彼はもう一方の帆を引っ張ると、風がそれをつかむより先に、位置決めして固定した。 そのとたん、セイルが爆発的な音をたてて風をはらみ、僕らはダービーのサラブラッドがスタートするような衝撃を受け、波のギャロップで後ろにはねとばされそうになった。 間髪入れず、駆け戻った彼が、僕から操舵輪を取り上げた。少なくともそれは、僕のいたずらから逃げていったときに彼が感じていたのと同じくらいの安堵感を、僕に与えた。 食事をした後では風向きが逆になるということさえ気づかなかったのは、僕が気もそぞろだった証拠だろう。いつもまわりで起こっていることをきちんと自覚しているという僕の誇りは、セイリングの基礎もわかっていないようなこの失敗で、もろくも崩れ去った。 タックを交互にとったつめ開きで航行していたといっても、船はすでに、母港からさほど遠くないところまで来ていた。 ある切り立った岬を回り込んだあたりで風は目に見えて弱まり、そこでスティーブは、また僕に舵を取るように言った。 彼がジブを降ろす用意ができたところで、僕は、船を風上に向けた。そして、ミズンを降ろす準備ができるまでに、船体を下げ、速度を落としながら水の上を滑らせた。 ここまでで、船は補助モーターをスタートするのにじゅうぶんなだけ、港に近づいていた。モーターボートへの切り替えはスムーズに、滞りなく行われ、すべてが手早く進んでいった。 スティーブは手練れた海の男の顔を見せて舵を操り、船を係留場へと運び終えた。 本当に、彼はすべてを終えた。この美しい船の上で、この魅力的な男と過ごした僕の時間は、終わってしまったのだ。 上陸の前に、彼はすべてのことを自らの手でかたづけた。モーターを止めるのも、船をもやうのも、僕には手伝わせずに。 そして、彼は、大きな手で僕の手をとり、その指を優しくサポートして、僕をふたたび桟橋に立たせた。 「ありがとう、スティーブ。すてきだったわ」 僕は泣きそうな声でささやいた。本当に悲しかったのだ。 「ん? キャプテン・ウルフィーじゃないの?」 彼がからかった。 「それは、もう終わってしまったわ」 僕は返事した。 「君は、そうしたいの?」 「そうね、スティーブ。今夜、また、あえるんだもんね。でも、あたし、今日のことは、永遠にあたしの大切な思い出として、心にしまっておくわ。たとえ、どんなことが起ころうとも」 彼は、僕のペシミスティックな言葉に、ちょっと困惑したようだ。 「どんなことが起ころうと? まずまちがいなく、僕らはまたセイリングすることになるよ。その時は、もっとお互いのことがよくわかっているはずさ」 僕は、彼の目を見つめることができなかった。 もちろん、本当の気持ちなど言えるわけがなかった。 僕は、ただ前を見つめて、彼とともにマリーナの門へと歩いた。 「今夜、会えるわね」 感情を抑えるのに必要だった少しの時間の後、僕は微笑みながら言った。 彼は、僕の不安定な感情に面食らっているらしく、僕の気分をもり立てようと、明るいトーンで笑いながら言った。 「だめだね。もし君が、僕がどうやって行けばいいか教えてくれないんだとしたら」 「あっ、そうね」 僕は、完全には心からの笑いができず、穏やかに微笑んだ。 彼に住所と道順を教え、それから、僕のポケットロケットに乗り込んだ。 「いい車だね」 彼は、感心して言った。 「ありがとう」 僕は、ささやかなプライドと、さらにささやかなユーモアを込め、微笑み返した。 「これは、あたしを現実に引き戻すわ」 彼を見上げたのは、まちがいだった。いや、たぶん、僕ができたうちで最もすてきなことだった。 彼と目があったとき、そこに、混乱する僕の心を開かせる暖かいものを感じたのだ。 彼もまた、その暖かさへの僕の答えを見た。そして、オープン・コンバーチブルに覆いかぶさるように、僕の唇に顔を近づけた。 僕らは、ふたたびキスした。それは、さっきのファーストキスほど圧倒的なものではなかったが、でも、もっと‥‥もっとずっと、危険なものだった。肉欲とはべつの、感情の深みからわき上がってくるものだったのだ。 彼が頭を上げたとき、僕は、それを終わるのがいやで、彼の唇を追うように唇を持ち上げていた。 彼は、優しく笑いかけ、そして、一歩退いた。 なにも言わず、そんな彼にうなずき、僕は車を発進させた。 ちょっと走って、かなり離れた場所から振り向くと、彼はまだ微笑みながら、見送ってくれていた。 家につくと、ジュリーの車が停まっていた。それを見て、僕は、ちょっとの間、ルームミラーでメイクを点検した。 僕の口紅は、明らかに落ちていた。僕には、その理由を説明する心の準備ができていなかったし、また、どう説明していいかもわからなかった。 口紅を直してから家に入ると、彼女は、髪にカーラーを巻いて、バスローブを着ていた。 「どうだった、デート?」 彼女は目を輝かせたりせず、まったく日常的な口調できいた。 「うん、なかなかよかったよ」 僕も、同じくふつうに答えた。 目が合い、お互いを腕の中に抱き合ったところで、二人いっしょに笑いを爆発させた。 彼女が体を引いて、きいた。 「実際の話、どんなふうだったの?」 「そうだね。僕らはセイリングして、マリーナの小さいけどすてきなレストランへ行って、ランチを食べて、帰ってきた」 僕はそう申告したが、今度は、僕の目は輝いていたようだ。 「それだけ?」 彼女は、疑いの目できいた。 「でも、ないけど」 僕はにっこりと笑った。 「ジョイ、じらすと、ひっぱたくわよ!」 彼女は、えくぼをつくって脅迫した。 「彼は、まちがいなくジェントルマンだった。僕がちょっとだけちょっかいを出すまではね。で、彼は、キスした」 僕は、くすっと笑って白状した。 「彼があなたにキスした! あなたも、それに応えたの?」 「なかなかうまくできたと思うよ」 罪の意識はかけらもなく、僕は言った。 ジュリーは、そんな僕の様子に、ちょっと考えをめぐらすようにして、きいた。 「それで、あなたは、楽しんだ?」 「ああ。彼はすごく大きかった。彼の腕に抱かれたとき、僕は、自分が、保護されてて、安全で、可憐で、無力だって感じた。それから、これまで感じたことのないいろんなことと‥‥あんな大きな男なしでは感じられないいろんなことも。ジュリー、君はまちがってないよ。僕は、女であるというのはどういうことなのか、前よりずっとよくわかった気がする。それは、衣服の問題なんかじゃない。生き方そのものなんだと思う。たとえば柔道の最高の技っていうイメージかな。男が持ってる強さを、彼がなにを望んでいるか考えることで、逆に自分のアドバンテージへとひっくり返してしまう‥‥」 僕がぶつぶつ話すのを、彼女は、ただ微笑んで聞いていた。しかし、あの時僕が感じたイメージを、不十分な言葉で説明すると、うなずいた。 そして彼女は、キスで、僕のおしゃべりを中断させた。 僕は、僕が抱いている愛のすべてで、彼女に応えた。彼女の夫として感じているプライドと包容力のすべてで。女どうしだけが共有できる優しさのすべてで。 僕の人格は、今、まちがいなくこれまでより大きくなっていた。僕は、キスの中にそのすべてを込めて、彼女に伝えた。 「ふーっ」 抱擁をとくと、彼女は言った。 「どうやらあなたは、本当になにかを学んだみたいね。そのうち、女であることの意味について、私に教えてくれるようになるかもしれないわ」 その言葉に、僕の心の奥で、ある思いが滝のように流れ出した。この瞬間、僕はまだなにかを達成したわけじゃないという思い、ついこの間の夜まで、自分自身のことさえわかっていなかったのだという思いが。 僕がそんなことを思っている間に、彼女は僕をバスルームに連れていき、セーターを頭から抜き取っていた。 僕はそこではじめて、彼女の爪が、魅力的に輝くスカーレットのつけ爪で飾られているのに気がついた。僕のより2段階ほど暗くて濃い感じだが、長くてエレガントだ。 「爪をつけたんだ!」 僕は喜び(ジョイ)とともに叫んだ。 「ええ、あなたが納得させたのよ。少なくとも試してはみようって。今日の午後、サリーのところに行って、彼女があなたにしたのと同じようにしてって言ったの。私の髪に合わせてダークな色を選んだ以外はね」 彼女がそれを誇らしく思っていることは、その微笑みが語っていた。 「さあ、急いで。速く用意しなきゃ」 彼女がうながした。 「でも、彼らがやってくるまで、まだ3時間以上あるよ」 僕は反論した。 「そのとおり!」 説明するまでもないという感じで彼女は言った。 彼女は、僕が服を脱ぎ、コルセットとブラをとり、髪から大きな白いリボンをはずすのを手伝いながら、その間に、僕の顔からメイクをすべて落としてしまった。 僕が裸になると、彼女は、僕をシャワーのところまで連れていき、また僕の体に脱毛剤を塗った。 「今度は、そんなに長くなくてもいいわ」 彼女は確約した。 「10分たったら、シャワーで落として。その後、髪を洗って、このコンディショナーを使って」 「髪を洗う? セットを保つためには、濡らしちゃまずいんじゃないの?」 「セイリングの潮風と海水のせいで、そのままじゃ傷んじゃうわ。洗って、コンディショナーをしたら、ウィッグをはずして。あなたがお風呂に入ってる間に、私がセットするから」 その言葉が、今や、混乱している状態が普通になっている僕を、また混乱させた。 「お風呂? さっきは、シャワーを浴びろって言ったけど‥‥」 「そのとおりよ」 彼女はもう一度、言うべきことは他にはないという言い方で言った。 彼女はベッドルームに消え、僕はそこに立って、ピンクの泡に覆われた肌を見て、かゆみがやってくるのを待っていた。 時間どおりに、それはやってきた。でも、今度はこの前ほどにはひどくなかった。 もうすでにそれを使ったことがあるのと、僕が朝、すべて剃ってしまって体毛の量が少なくなっているのとの両方で、大した反応を起こさないのだろう。 でも、洗い落とすシャワーのしぶきは、相変わらず天国のように感じた。それから、僕は、「僕の」髪を洗った。 そのすばらしい量の蜂蜜の輝きは、さらに重くなった。そして、すべてをぬらし、すべてをシャンプーで泡立てるのに、長い時間がかかった。 それを泡立て終わったときには、僕は、それが膝まであって、50ポンドあると確信した。 すすぐのにも、それと同じだけの時間がかかり、コンディショナーを使う前に、僕の腕は疲れきっていた。でも、僕は、僕を虜にした魅惑的な冒険のすべての断片をも引き受けるつもりでいた。だから、その作業をしている間も、僕は、ウィッグをとりたいとは思わなかった。 やっとそれを終え、僕は、ジュリーを呼んで、シャワーから出た。 彼女が最初にしたのは、僕の美しい髪(といっても、もちろん、それは、濡れてのびてしまっていた)をとることだった。彼女はそれを型台にのせ、たらした。 古典的な大げさな言い方を控えめにして言うなら、僕は、奇妙な裸体であった。 流れるブロンドの髪を失ったばかりでなく、完全に均整のとれた乳房を持っているのだ。 どちらが、より不適当なのか? 僕は知りたいと思った。しかし、髪を失ったことの方が、僕の心を悲しませていることはたしかだ。 ジュリーは、蒸気の立つ泡風呂を示し、僕に入るように言った。 「でも、僕は洗い終わったばかりだよ」 僕は不平を言った。 「わかってるわ。でも、バスオイルは、あなたの肌をソフトにするはずよ。誰かさんが、今夜、それを愛撫したいと思ってるような場合にはね」 彼女は時間を心配しているはずなのに、こんな時間の浪費をすることに不満を持ち、お湯の熱さに不満をこぼし、美しい髪がなくなったことに不満を抱き、不満だらけで、僕は自らの体を風呂の中に沈めた。 およそ2秒がたった。 お湯は、脱毛剤のかゆみを洗い流すよりずっと天国だと感じさせはじめ、バスオイルは、僕の肌をソフトでなめらかにしはじめ、泡は僕に、甘やかされ、かわいがられている感じを与えはじめ、そして僕は、世界のすべてが、これまでよりずっと快適になったように感じ始めていた。 ジュリーが戻って来なくて、出ろとも言われないのなら、僕はずっとそうしていたかった。 時計は止まっていた。いや、とんでいた。まったくそんな感じだった。 僕は10分入っていただけのつもりなのに、そのうそつきな時計は、ほぼ45分浸かっていたのだと言っていた。 ジュリーがタオルで拭くのを手伝ってくれた。彼女がふわふわのテリークロスで、僕の形のよい乳房をなでるのを見ているのは、奇妙な感じだった。それから、優美な香りのするバスパウダーが僕の体にふられた。 僕自身の短い髪は、僕が心配する必要のないほどじゅうぶんにタオルドライされ、その後、ジュリーは、僕に地獄のガフを手渡し、ここを出てベッドルームに来るように示した。 「オーケー」 彼女は言った。 「今夜は、キャミソールなしで過ごさなくちゃいけないのよ。私たちは、二人ともストラップレスドレスを着るの。さあ、ベッドの柱につかまって」 彼女が取り出したのは、艶のある黒いサテンのコルセットだったが、それは赤(僕の色だ)で縁取られていた。そして彼女は、僕をひもで搾り上げる作業をはじめた。 そのデザインはハーフカップになっていて、僕の乳房を持ち上げ、揺らしていたが、永遠に勃起したままの乳首を被ってはいなかった。 そのいかさまの輪郭は、僕の胸をしぼり、壮観な谷間をつくり、不明瞭さのないカーブを描き出した。 そのデザインは、同じようないかさまをあちこちに仕掛け、僕のウエストは不可能なほど細いサイズを強制され、それでもなお、自然でスムーズに見えるカーブを形づくった。 優美なレースで縁取られたふたつのガーターが、黒い絹のストッキングをサポートした。そのストッキングは、細いシームがアクセントになっていて、ジュリーは慎重に、それを矢のようにまっすぐに仕上げた。 黒いレースのパンティは、ランジェリー・モデルに見えるほどにガフをごまかし、ヒップをあるべき形にして、ぴったりと張りついた。 彼女がバスローブを脱ぐと、その下には、やはりコルセットを着けていた。彼女の目と完全にマッチした、深い光沢あるサテンだ。 それはまだ、ひもが絞られておらず、きつくなってもいない状態だった。僕が驚かされたのは、そこで彼女が、僕の服を着せる作業を中断したことだった。彼女は後ろを向くと、彼女自身がベッドの柱を握った。 「私の番よ。爪に気をつけてね。もし何かトラブルが起きても、それをどうにかしてる時間はないんだから」 今、僕が長い間望んできたことへの回答が、目の前にあった。 僕がこれを着ろとぶちぶち言ったことがいかに強制的なことだったか気がついた今になって、こんな信じられないようなシチュエーションに至り、彼女はそのファンタジーを現実のものにしようとしているのだ。 その同じファンタジーが、僕自身に負わされたとき、その願望を実現するには、たくさんのあえぎと、満足に息ができない状態を伴うことを知った。 僕と同じように細く彼女のひもをしぼりながら、僕の心の中では、罪悪感と満足感が戦っていた。 勝ったのは満足感だった。僕の努力はまちがいなく、彼女をまちがって見せていた‥‥または、輝かしく見せていた。 ジュリーはすでに、自分のストッキングをはき、劇的で洗練された技で、顔をつくっていた。 カーラーが髪からはずされ、彼女の髪は、エレガントでドラマチックな姿を見せた。純白のリボンでアップに結われた髪は、ソーセージカールされて後ろでくるくるまわり、彼女の裸の肩をなでていた。 ブルーのサテンのサンダルは、僕が強いられたのより少し低かったが、足自体の小ささを考えれば、ほぼ同等だと言っていいだろう。入り組んだデザインのストラップに支えられた彼女の足は優美に見え、それはまた、彼女の足首の細さをも強調していた。 型台の上にある僕のブロンドのウィッグに目を向けると、それはホットカーラーで乾かされ、慎重にセットされているところだった。 もし許されるなら、すぐにもそれに手をのばしたいと思った。 僕はまだ髪なしの裸という感じで、なんだか居心地が悪かったのだ。 そのかわりに、ジュリーは僕を座らせ、黒のサテンのサンダルを履かせ、その後、僕のメイクにかかった。 僕は、彼女が単に最初の夜のデザインを繰り返すものと思っていた。そして、たしかに、肌色や見かけは無色の化粧品をていねいに塗るところまでは同じように見えた。 しかし、彼女が色を入れ始めると、僕の顔は、あきらかに、彼女自身と同じようにドラマチックで美しいものになっていった。といっても、それは、僕自身の自然な顔色とクリスタルブルーの目が巧みに活かされたものだ。 それが、あの夜の近所の女の子ふうでないのは明らかだった。少なくとも外観は。いや、表情や仕草もまた、今日の午後をスティーブとともに過ごしたことで、もはや控えめとは言えなくなっていた。 メイクが終わった時には、僕はもう、どこへ出ても美しい女性で通るだろうと思えた。短い髪は、優雅さがなく、似合わない感じがするとしても。 ジュリーは、僕のウィッグの乾き具合を見て、もう着けてもいい頃だと言い、僕がそれをかぶるのを手伝った。 僕には、それはうまくいっていないような気がした。ホットカーラーで巻き上がり形が変わってしまったそれは、僕が期待したようなものには見えなかったのだ。でも、彼女のすることにまちがいはないだろう。しばらくすれば、僕はきちんとした髪型にセットされているはずだ。 鏡に写った僕らの姿が、ちらりと目に入り、僕はあることを想像して笑ってしまった。 「ねえ、サイドビジネスに、二人でモデルをやらない?」 ジュリーも鏡を見て、くすりと笑った。 「そうね。私たちならきっと、稼げるわ」 乳首を露出させ、細くしまったコルセットを着て、シームのあるストッキングととんでもなく高いヒールを履き、ドラマチックだけれど洗練されたメイクをしている二人の女。これは、わが国のランジェリー広告のスタンダードといっていいものだろう。もちろん、ふつうのランジェリーのことを言っているのではないが。 彼女はもう一度笑った後、僕の武装したあばらをつつき、ベッドの上の服を指し示した。 「急がなきゃ。あの人たちが来るまでに1時間しかないのよ。それまでに、ディナーの用意だってしなきゃいけないんだから。ドレスを着て。私のジッパーを上げてくれたら、あなたのも上げてあげるから」 「取引成立」 僕は笑って、明らかに僕のために用意されている黒いシルクの服に手を伸ばした。 ジュリーは、まちがいなく、今夜僕らが姉妹に見えるようにと考えて、この服を選んだのだろう。でも、そのからみつくシルクのドレスに脚を通すと、めいっぱいドレッシーでありながら、どこかみだらな感じさえするものであるのがわかった。 ぴったりしたスカートは、立っているときでさえ、ストッキングのいちばん上をかろうじて覆っている程度だ。座ったりかがんだり、あれこれすれば、それも無理だろう。 「あの人たち、もっとカジュアルな格好で来るんじゃないかな?」 僕がきいた。 「もちろんよ。でもね、それこそ、私たちがドレスアップしてる理由でしょ。男の人って、自分たちはカジュアルである方が好きなのに、自分の女には、レディらしく見えることを望むの。それにね、私たちが、今夜のことを大事だと思ってるって、印象づけることもできるでしょ。これだけやってれば(enough to go all out)、ね」 外観がすべて(all out)というのは、まちがいない。 官能的な下着は、僕に、最大限の女さらしさ、最大限の色気を要求しつづけている。 この長い爪もだいぶ身についたけれど、値段に見合った価値を引き出しつづけるには、手入れと注意を怠れない。 僕らのハイヒールは、なめらかなシルクで包まれた脚をすらりとそびえさせるけれど、バランスをとるためには、多くの気づかいが必要だ。特に、なにも気づかっていないかのように軽快に振る舞おうとすれば、なおさら。 それはまるで、古代ローマ帝国以来使われてきたテクニックを応用するようなものだ。そこでは、凱旋パレードに酔う征服者の耳元で、奴隷たちがささやきつづけたという。 「忘れないで、あなたはいつか死ぬ!」 僕らの場合、本来は体の中から湧き出す感覚の代わりに、この外観にささやかせる。 「忘れないで、あなたはとっても感じやすいのよ!」 そんな印象は、まちがいなくこの服を通してもたらされるものだろう。単に、ジュリーの選んだこの服が、残酷なほど明瞭に、体型の凹凸を目立たせてしまうというだけでなく、薄い素材を透けて、コルセットで押し上げられたむき出しの乳首が見えてしまうことで。僕の場合、その人工的な乳首は、絶えず、はっきりと、あからさまに突きだしているのだ。 いいだろう。もしことがうまく運べば、男たちも、同じようにあからさまなショーを見せてくれるにちがいない。彼らのズボンを通して。 僕のは黒で、彼女のは深い紺色のそのドレスは、厳密な意味ではストラップレスではなかった。 スパゲティくらいの細さのストラップが、サポートというよりアクセントとしてつけられ、露出している肩を、かえって強調していた。 ジュリーは、僕の体が抱えている問題を、コルセットとはまたちがうもので、カバーしてくれた。喉仏は、それよりさらに目立つものが首に加えられることで、目立たなくなっている。その幅の広いシルクのリボン・チョーカーは、僕たちそれぞれの髪の色とマッチししていた(赤は僕、白が彼女だ)。仕上げに、金のペンダントをぶら下げた。 彼女はそのペンダントとおそろいのイヤリングを選んでいた。つけてみると、イヤリングが揺れるたびに、耳たぶが引っ張られた。 「えっと、あと、なんだっけ?」 彼女は、なにかを考えるような顔をした。 僕が髪の毛のホットカーラーを指さすと、彼女は頭を振った。 彼女の顔に笑顔が浮かんだ。やっとそれを思い出したようで、宝石箱のところまで行った。 彼女はふたつのきらきら輝くテニスブレスレットを取り出し、片一方を僕に手渡した。青いサファイアは彼女、ブリリアントカットのルビーは僕だ。 僕はつねづね、彼女の宝石の選択はちょっと余分だと思っていた。ひとつのスタイルの中に、ばらばらのアイテムが入り込んでいることがよくあるし、色が微妙に合わないことも多い。でも、今夜、それは僕たちを魅力的に見せていた。彼女は、大きなサファイアのまわりをダイアモンドが囲んだカクテルリングを彼女用に、同じようにルビーが入ったのを僕用に用意していた。 それは、かろうじて僕の指を通ったが、はずすときは、問題だろう。でも、それは後で考えればいいことだ。 二人それぞれ少しだけ香水をつけ、そしていよいよ、彼女は僕に、髪を仕上げるために座るように言った。 なめらかでシルキーな髪は、今、そのバックを、柔らかで艶のある赤いリボンで束ねられ、弾力のあるカールとともに揺れている。つるのようにカールした細い髪束が両頬の脇ではずみ、前髪は、片方のまぶたにかかるような形でサイドに流されている。それらが、堅くこわばらない程度にヘアスプレーでセットされ、これで、完成だった。 僕の助言者は、三脚のついたカメラを持ち出し、僕にいくつかのポーズをつけた。無邪気(この格好には、いちばん合っていた)とか、エロチック(極端に、でもきわどくなりすぎずに)とかだ。 ジュリーはさらに、タイマーをセットして、二人がからんだ写真を撮った。そのうち1枚は、抱き合ってキスしているものだ。もし売る気があれば、カルい男性雑誌なら掲載したがるだろう。 彼女は、僕の唇をなおすのを手伝ってくれて、そのあと、僕らは、ディナーの用意にキッチンへと急いだ。 ちょうど、テーブルのキャンドルに火をつけているとき、ドアベルが鳴った。 手がかたまり、呼吸がとまり、心臓が凍って、逃げだして隠れるなら今が最後のチャンスだと、心の声が叫んだ。 ジュリーは、馬鹿にする感じではなく、いたずらっぽそうな笑顔を向け、うなずきなから、僕に出ろと目配せした。 僕は呼吸を再開しようとしたが、その愉快なほど悪魔的なコルセットは、大きく吸い込むことを許してはくれなかった。でも、僕は残りのキャンドルに火をつけ終わってから、ゆっくりとドアの方に歩いた。 その途中、僕は、高いヒールが必然的につくり出す動きの中で、ヒップがセンシティブに揺れているのに気がついた。 かわいいシルクドレスのスカートは、僕がこれまで着たどの服よりも明るく、華やかなエネルギーと気持ちを揺さぶる衣擦れの音とともに、弾んでいた。 玄関に着くまでに、僕は、さっきのスチール写真の中のような感じではなく、レディとしての、ひとりの女としての動きと仕草を取り戻していた。 これは、僕に自信をもたらした。というより、今日の午後感じていた自信が、ふたたびよみがえってきた。 さっきまで、大忙しのディナーの準備に巻き込まれていて、僕には、役に感情移入するひまがまったくなかった。でも、それには、玄関までの数歩でじゅうぶんだったようだ。 その時にはもう、僕は、官能的できれいな女の子、ジョイになっていた。僕の中には、他の誰も存在していなかった。 僕らの家には、サイドライトのついた、通常の二倍の広さの入口が張り出していて、そこにドアがつけられている。それを開けると、左右の壁から壁、床から天井までのすべてを埋め尽くして、ふたつの巨大なかたまりが立って待っていた。 スティーブはやはり、僕の心では受け止められないほど大きかった。会うたびに、僕の記憶の中の彼のサイズは、実際に彼を見るより小さいということに気づく。 彼の連れは、僕のほんの2倍ほど大きいだけだ。もし数字に関して僕の記憶が正しければ、彼、ブラッド・ジャクソンは、約6フィート3インチで、220ポンドのはずだ。心乱れる僕が言うのだから、確証はないが、まあ、それはそんなにたいした問題じゃない。 僕のスティーブを除けば、彼がこの空間で最も大きかった。 僕は、この着飾った肉のかたまりに、しばし呆然として、立ちすくんでいた。 「入ってもいいかな?」 スティーブが笑顔を放ちながら言った。 「えっ、ええ、どうぞ」 僕は、動転して、頬を染めた。でも、僕は、なんとかその場に踏みとどまった。 そのハンサムな男たちは、カジュアルなスラックスと、スポーツコートを着ていた。でも、彼らはそれぞれ、ワインのボトルと、腕いっぱいの花束を持っていた。 全面的な思考のプロセスがやっと戻り、僕は、よりよいホステスになろうとした。 「どうぞ、気をつかわないで」 そして僕は、(ソフトな声の限界の)大きな声で呼んだ。 「ジュリー、いらしたわ」 彼女は、すばらしい歓迎の態度を表しながら優美に入ってきた。僕もあんなふうにできたらいいのにと、うらやましくなった。 僕は、この借りを返してやろうという誓いを込めて彼女に感謝の笑顔を送った。いつか彼女の方が僕から女らしさのレッスンを受けるようなるかもしれないと、彼女自身が言っていた、あの誓いである。 「スティーブ、姉のジュリーよ。おぼえてる?」 僕が紹介の口火を切ると、彼はうなずいた。 「忘れるわけがないだろ。これはブラッド・ジャクソン。ブラッド、これらはジュリー・コナーズと、彼女の妹のジョイだ」 「お目にかかれてうれしいっす、マーム」 ブラッドは、オクラホマ訛りでジュリーに言った。 ジュリーの目は、彼の礼儀正しさにうれしそうに輝いた。と同時に、その目は、今夜の楽しみをずくにでもはじめるきっかけを狙っているようでもあった。 彼女は手を伸ばし花を受け取ると、彼を家へに招き入れながら、さっとその手を彼の腕にからめた。 「ねえ、あんだ、あんだが、こっからもマーム(ご婦人、奥様)なんでくっちゃべっだら、あんだのこと、追い出しちまうだよ」 彼女は、明るい笑顔と輝く瞳でいっさいの侮辱を帳消しにし、南部訛りで優しくいじめた。 ブラッドは、ちょっと恥ずかしそうにうつむいた。その様子は、こんな有名な男なのにとてもかわいらしかった。でも、彼は、彼女の言葉に納得してうなずいた。 「わかったよ、ジュリー。もう二度とマームなんて言わないから」 僕は、彼女を見習い、スティーブから自分の花を受け取った。 僕らは、彼らをリビングルームに招き入れ、僕らが花を生ける間、ワインを並べてくれるようたのんだ。 彼らがくれたのは、それぞれ1ダースものバラの花で、僕のは情熱的なルビーレッド、彼女のは、無垢な純白だった。 もし、ここにジェイがいたなら、彼は、ジュリーに、本当にそんな無垢なままでいてほしいと思ったにちがいない。でも、ジョイは、彼女の姉に、それとはちがう期待を抱いているのだ。 ジュリーは、この2・3日、僕らの生活の多くを切り回してきた。そして、この日も、僕がセイリングに行っている間に、彼女ひとりでディナーの準備をほとんどしてくれていた。 彼女は、僕らがきついコルセットに閉じこめられているうちは、ほとんど食べられないことはわかっていたから、僕らが少ししか食べなくても、男たちがたくさん食べることを遠慮しなくてすむような料理を選んでいた。 メインの料理は、僕らが以前、二人で研究した、何層にも重なったラザニアだ。 それは、僕らの男たちが空腹になったりしないように、たくさんつくられていた。そして、彼らは、確実に空腹になるようなことはなかったようだ。 ガーリックトーストと、イタリアンドレッシングのかかった軽いサラダが、そのシンプルな料理に添えられた。もちろん、僕らのゲストが持ってきたワインもいっしょだ。 まるで子供時代からの親友ででもあるかのように、ディナーは、暖かい雰囲気で陽気に過ぎていった。 妙にかしこまっているブラッドをジュリーが優しくからかうことで、彼らの間にあった壁はすぐに取り払われた。そして、あの午後のキスの後で、僕には、スティーブと距離をとらなければならない理由なんてなかった。 レディーらしい興味の示し方のコツを、ジュリーが僕に見せてくれたことで、僕らは、彼ら自身の口から、彼についての話を引き出すことができた。 男たちは、お互いに、相手のことについて語ってくれた。 ブラッドは、スティーブが、チームにとっていかにかけがえのないリーダーかを話してくれた。スティーブの方は、ブラッドが脳しんとうや指のけがやその他の故障があっても、試合でいかにうまくうそをつくかを話した。 そこには、明らかに、男性的な強さに裏づけられた、お互いへの尊敬の気持ちがあった。それは、このハンサムな男たちに女っぽい笑いで親しさを示している、僕たち女性とは異質のものだった。 ディナーはすぐに終わったけれど、僕らはそこにゆうに1時間は座っていた。 僕とジュリーが料理の後かたづけを簡単にすます間、彼らにはリビングに行ってもらおうとした。でも、彼らは、僕らの声をきいていたそうだった。それでジュリーが、残りは自分がやるからと僕を立たせ、二人はやっと腰を上げた。 そこで、僕が今夜計画していた、最初のお楽しみの時間が来た。これは、今日のランチの時、ファンたちが、スティーブを囲んでそのプレイのすごさを話していたことで思いついたものだ。 スーパーボールのチャンピオン、モンタナ・サンダーバーズのNGプレイ集のビデオを見たのである。 へまのいくつかは、チャンピオンチーム自らが起こしたものだが、その多くは、耳の聞こえない線審や目の見えない主審が滑稽に話を大きくしてしまったせいだということになった。 サンダーバーズの相手チームがやったいくつかのへまは、世界一のチームに立ち向かったことによって引き起こされたという話になった。 そうした話は、もう一度、彼らがお互いどうしのことを話すことにつながり、スティーブは、ブラッドがいかに絶妙のタイミングで相手ディフェンダーのエラーにつけこみ、本当はそうでもないのに、相手を馬鹿みたいに見せてしまうかを話した。 ブラッドは、スティーブが、ファンブルのリカバーやインターセプトに最適なところにいつもいるのは、誰にもかなわないボールに対するセンスがあるからだと言った。 自分自身の自慢話にはならないことが、僕らの男たちを、相当なジェントルマンだと感じさせた。 僕は、彼らがいったいどこまで紳士的なのか知りたいと心に決めた。 ビデオテープはやっと終わり、僕たちのごつい男たちに安堵の時が訪れた。 ジュリーがスローなCDをプレイヤーにセットし、僕は、今からなにが起ころうとしているのかわかった。 僕は、スティーブの太い腕につかまれ、そして僕らはゆっくりと揺れていた。 僕の腕は、彼の首につかまり、彼の腕は、僕のウエストを抱いた。 僕がその手に力を込めると、彼も同じようにしてきた。そして、僕のつま先は、たまにその存在意義を失い、床に軽くふれるだけになった。 ブラッドとジュリーも踊りだしていたが、まだ、完全に密着してはいなかった。 ある時点で、男たちが背中合わせになったので、僕は、彼女のカレの肩越しに、視線を合わすことになった。 僕は唇でキスの仕草をし、彼女が賛同するかどうか目を上げた。 彼女は驚いて目を見開いたが、すぐにいたずらっぽい笑顔を返し、かすかにうなずいて、同意した。 僕は、スティーブの肩の下から見上げるようにし、彼のきりっとした唇をそっと見つめた。 僕の腕を彼の首にもう少し強く巻きつけ、一方の手を、こっそりと、彼の首筋の毛にからませた。 彼の顔が、そして唇が、優しい圧力とともに下りてきて、僕が彼にさしだした輝くルビーに合わされた。 そのキスは、あのヨットでの一度目の結合と似ているようでもあり、またちがっているようでもあった。 僕らはお互いの間にあるすべてについて、急いでいなかったし、困惑も動揺もしていなかった。そして、その許される限りきつい抱擁を満喫することで、僕は彼の力の前に、喜んで降伏していた。 彼の舌が、僕の唇をくすぐって、優しくリクエストしてきた。僕の唇は自然に開き、彼の侵入を許していた。 僕自身の舌は、その特別ゲストをちゃんと中で待っていて、暖かくデリケートな歓迎をした。 そのデリカシーが、高まってくるパッションに席を譲っていった。そして僕は、彼の舌を吸い始め、僕が提供できる唯一の口に、彼を引き入れようとした。 僕らは、永遠にそのままで居つづけたいと願い、目に見える密着以上に見えない抱擁でからみ合っていた。しかし、その時CDが終わり、次の曲は、もっと騒々しいものに変わってしまった。 それが、僕らの自覚を呼び覚ましてた。そして、スティーブの唇は、僕の届かないところにつり上げられてしまった。 僕が頭を彼の肩に戻すと、ジュリーがもう一度こちらを見ているのがわかった。彼女の口紅が落ちていることで、僕は、鏡を見るように自分自身の顔の状態を知ることになった。 「ねえ、キャプテン・ウルフィー。あなたって、どんなふうにしたら女の子が感じるか‥‥うれしいか、ほんとによく知ってるのね」 僕は、からかい気味に言った。 「キャプテン・ウルフィー?」 ブラッドとジュリーが、まるで練習でもしたかのようなユニゾンできいた。 僕は、やさしく身をよじるようにして、着地させてくれるように彼に伝えた。僕の体は、まだ浮いていたのだ。そんなに重くないらしく、彼は平気な顔をしていた。 ゆっくりと僕は降ろされ、彼の抱擁から引き下がって、台所の方へ動いた。 「そのことは、きっとスティーブが教えてくれるわよ、ブラッド。ねえ、ジュリー、ちょっとデザートを取りに行かない?」 僕はきいた。 彼女は、自分のダンスパートナーから離れ、僕について、ドアの方へ来た。 「男の人たちは、暖炉に火をつけてくれる?」 僕は、そう持ちかけた。 「薪はそこね。その裏口の外にはもっとたくさんあるわ」 彼らが、その作業にかかっている間、僕は、キッチンにジュリーを引っ張って行った。 「二人とも、お化粧を直さなきゃいけないよね」 僕は、笑いながら言った。 彼女はあわてて手を口にあてた。ブラッドとの接触のあとが残っているとは思ってなかったようだ。 僕らは、その魔法の必需品を取り出し、すぐに、ジュリーの創造した女らしさのビジョンに戻っていた。 デザートは、夕食の前から冷やしておいたフルーツの盛り合わせだったから、そんなに準備の時間はいらなかった。 それで僕は、今夜の構想のひとつとして思い描いていた別の楽しみ(それが、本当に「楽しみ」ならいいがと、僕は祈った)への心の準備をするため、二人の精神的パワーをそこに集中しようとした。 「ジュリー、君は、今夜僕らがやりきることで、僕らの関係はもっと強くなれるんだっていうようなことを言ったよね? もちろん、僕の秘密がスティーブにばれて、僕が殺されるようなことがなければって話だけど」 彼女はその答えとして笑い返してみせた。その笑いは自分の気持ちを確かめるような微笑みに変わったあと、自信に満ちあふれたいたずらっぽい笑いへと変化した。 僕は、その自信を突いて、きいた。 「ここから先、僕に任せて、言うとおりにしてくれない?」 「なにをしようっていうの?」 「僕に任せられる?」 僕は、もう一度きいた。 「そうしてくれたら、僕は君が望んでいないことはさせないつもりだし、君がここまでに、僕にさせようとした以上のことをさせるつもりもないよ」 ジュリーは、僕が求めた白紙委任状に目を丸くし、そして、これまで僕らが話してきた狂気じみたことのすべてを思い出すように、内省的なまなざしになった。 でも、次の瞬間、彼女はもう一度うなずいた。 「ええ、あなたのことを信用して任せるわ。あなたが言い出すどんなことでも、私は賛成する」 僕らは、フルーツを皿に盛ると、リビングルームにとって返した。 彼らは、すでに火をつけ終わり、その具合を見るために、部屋の反対側にあるカウチに腰を落ち着けていた。 カウチには、実際、もうひとり分の余地しかなく、僕は、果物の皿を渡しながら、彼女にそこに座るように示した。 僕は、スティーブのそばの床に座り、彼の脚にもたれた。そして、頭をその膝の上にもたせかけ、暖炉の火を見ていた。 スプーンとクリスタルの皿が触れるやさしい音が納まってきたのを見はからって、僕は、燃えはじめたばかりの火を見ながら、さも何気ないように口を開いた。コルセットにしめつけられながらも、心臓は、狂ったように強打し始めていたのだが。 「ふたりには、兄弟はいるの?」 僕はきいた。 スティーブは黙っていたが、ブラッドはうなずきながら言った。 「ああ、弟が二人いるよ」 「これまで、あなたは、弟さんのどちらかとなにか協定を結んだことってある?」 僕は、その炎を見据えながら、ほとんど夢を見ているように、静かにつづけた。 「協定? なにが言いたいの?」 「二人でなにかしようとか、これはしないでおこうとかいう約束。お互いにそれを守れるように助け合おうって約束」 僕がなにをしようとしているのか、ジュリーは不思議そうな顔で見ていた。 彼女は、僕に兄弟がいないのを知っている。兄弟も姉妹も。だから、そんな話がどうつながっていくのかと、思っているのだ。 「いいや、そんな約束はしたことないよ」 ブラッドは、ジュリーの目に浮かんでいる疑問にではなく、それより前にきかれた僕の疑問に答えた。 僕は、ジュリーとスティーブをも見渡した。 「そう。ジュリーとあたしは、協定を結んでるのよ。結婚するまで、体の関係は持たないでおこうって。セックスはそれまでしないでおこうって、二人で決めたの」 三人は、驚いた顔で僕を見た。 男たちの視線は僕に集中しているので、ジュリーの驚きは、彼らの目には入っていない。 彼女と僕は、たしかに結婚前にそんな協定を結んでいたのだ。僕らは多くの点で古風なところがあった。でも、それを、今、家でドレスアップして、二人の男を楽しみながら証明してみせようなんて、あまりにもばかげている。彼女はそう思っているにちがいない。 僕は、新婚初夜に、ジュリーがバージンであったことを知っている。それは、僕にとって最高のことだった。ジュリーにしても、そうだろう。 彼女は、さっき台所で「妹」から約束させられたのが、このことだとは気づいたようだ。 でも、明らかにセックスについて話している僕の言葉は、「合意」ではなく「拒否」だ。僕が話をどこに持って行こうとしているのか、彼女はまだそれをつかめないままでいた。 「でもね、あたしたちは、こんな協定も結んでいるの。もし、状況が許すなら、あたしたち、どうやったら‥‥男の人たちを‥‥喜ばすことができるのか‥‥そんなことを、学びたいって。初夜に失望を味合わないために‥‥ね」 まだ、それ以上の説明を要する混乱がつづいていたが、今、それは「合意」へと変わりつつあった。 僕の話は、ブラッドとの会話から始まったにもかかわらず、話している間、僕は、ずっとスティーブを見ていた。 「いったいなにが言いたいんだい? 僕のジョイ」 僕の巨大な男は、驚きを含んだやさしい口調で聞き返したが、彼のスラックスの中では、固くなったものが、目に見えるほど脈打っていた。 僕は、半ば演技で、半ば本心から、口ごもりながら答えた。まだ、心の奥では、こんなことは馬鹿げている、こんなめちゃくちゃなきちがい沙汰はやめるべきだという叫びが、響いてはいた。 「あたしたち、‥‥つまり‥‥できれば、その‥‥してあげても、いいかなって‥‥つまり‥‥お口で‥‥」 ついに言ってしまった。 ジュリーは、ため息をついた。それは、コルセットにきつくしめつけられ、不自然な小さなものになったが、男たちの方は、大きく息を吐いていた。 「‥‥こ、ここで?」 スティーブは、驚きにせき込みながらきいた。 「ええ、そう」 僕は返事した。 「つまりその、あなたたちは、ロッカールームの中で、お互いをよく知ってるわけでしょ。それなら、あたしは、ベッドルームとかどこかへ行かない方がいいって気がしてるの。あなたが信用できないってわけじゃないのよ。あなたは‥‥あなた方は二人は、ジェントルマンだと思ってるわ。でも、あたしは、自分自身が信用できないの。姉があたしのことを見ていてくれないと、あたしは約束を破るかもしれない。あたしの中には悪い子がいて、ううん、あたしの大部分は悪い子で、約束を破らないように努力するなんてできそうもないの。いいの、もしそれがあなたの気分を害したなら、すぐに忘れて。あたし、馬鹿なこと言っちゃったかもしれない」 僕は、それが現実になってしまったことに当惑し、ふたたび暖炉の方に向き直った。僕は、自分が言ってしまったことにショックを受けていた(もうそれは取り返しがつかず、後の祭りだった)。そしてそれは、僕が今夜、自分が思っていたほどジョイになりきっていないことを示していた。 スティーブは手を伸ばして僕の頭をなでると、僕の顔を彼の方に向かせた。彼は、寛大な微笑みを浮かべていた。 「そんな恥ずかしがらなくてもいいよ。もし君が、それを大事だって思ってるなら、僕らは、その‥‥つまり、レッスンを、なんとかできると思うよ。そうだろ、ブラッド?」 「ジュリーが、それでいいと言うなら」とブラッドは答えた。 そこで僕は、挑戦的なまなざしで彼女を見た。 僕がジョイとして外出した最初の夜、彼女は、僕が男のコックをくわえることができないならば、この先ずっと彼女にオーラルセックスのことであれこれいうなと言ったのだ。 まあ、それは、彼女のはったりにはちがいない。 でも、僕が言いだしたこの突飛な提案にうんと言わないのなら、彼女だって、この先ずっと、僕の言うことはまともだと認めなければならないのだ。 そう、僕がずっとまともなことを言ってきたのだということを、僕は身をもって証明しようとしていた。 そう考えて、僕はレディらしくなく鼻を鳴らしそうになってしまった。でも、僕は、なんとか黙ったままで、彼女が心を決めるのを待つことができた。 彼女の答えは、カウチからすべりおりることで示された。彼女は床に膝をつくと、僕がスティーブにしているのと同じようなポーズで、ブラッドの脚にもたれかかったのだ。 「わかっていてほしいんだけど」 彼女は、僕のついた大ウソをさらに重ねて、まるでそれが、僕ら二人の間の真実であるかのように言い訳した。 「私たち、こんなことはじめてなの。だから、きっと、あんまりうまくはできないと思うの。初めてで、恐くてしかたがないから」 「僕らは‥‥その‥‥そんなこと、気にしないさ」 ブラッドがにっこりと笑った。 彼は、ジュリーと知り合って、まだ2・3時間しかたっていない。だから、本当の意味で愛情を感じているわけではないだろう。 彼には、喜んで身を投げ出すようなグルーピーたちがいるのだから、たぶん、これは、そんなに珍しいことでもないにちがいない。 でも、おそらく、姉妹が二人いっしょにフェラチオするというような経験はあまりないはずだ。そのことが彼を面白がらせているのだ。 そんな機会に巡り会ったことの喜びを、彼は笑顔で示し、カウチのふちのところまで、腰をずらした。 でも僕の方は、スティーブの深い瞳の奥に、彼がずっと自分の感情を真剣に確かめつづけていたのを見ていた。 コルセットのせいで、ジュリーと僕は、今夜ずっと、上品な態度をとりつづけざるをえなかった。 ここまでのキスは、パッションの高まりとともに、徐々に熱を帯びてきたが、それは、本当の意味での体の交わりではなく、ただのキスにすぎなかった。 でも今、僕らは、単純なキスから、一度に飛躍して、コックをくわえるという行動に出ようとしているのだ。 彼の目の中には、純粋で純情なレディだと思ってきた僕への認識が、もしかすると、粉々にうち砕かれてしまうのではないかという痛みのようなものがあった。 でも、僕たちは、けっして最後までいけるわけではないのだから、これがたぶん、彼のために最善のことだろう。 その上、彼は男なのだ。頭みそのある本物の頭と同程度には、他の小さな頭によって支配されているのだ。だから‥‥。 彼は、その提案に合意した。僕に対する認識がまちがっていたなどと考える前に。 これはつまり、彼らがここにやって来た時点とくらべ、明日の朝には、僕に対する敬意が確実に薄くなっているということだ。でも、僕が唯一気になるのは、ジュリーの僕に対する敬意についてだ。 彼女の僕に対する敬意は、彼女が設定したこのコースが進むに連れて増しているのはまちがいないだろう。そして、今や彼女が予想したところを越えて進もうとしているのだ。 ジュリーは、僕が僕自身を予想以上にうまく操っていることに感心していたかもしれない。でも、その段階は過ぎ去っていた。 今や僕は、僕のファンタジーのこれまでとはちがう局面で、彼女自身を操ろうとしているのだ。たとえ別の男に対してであれ。そして、僕の言ったことが「まとも」かどうかをはっきりさせようとしているのだ。 その上、僕は、ここまで、彼女がほとんど僕には無理だと考えていたこの実験を、実際にやってみせ、二人で前進しながらクリアしてきたのだ。もし彼女の僕に対する敬意が増していないとしても、少なくとも、僕が信じている程度には、彼女は、僕に対して、そして彼女自身に対して正直になっているはずだ。 僕は、彼女の注意を促すように、小さく指を鳴らし、わざとらしく息を吐いた。スティーブはそれを、僕がフェラチオへのおびえから自らを奮い立たせた行為と理解したようだ。 もちろん、そこにはそういう意味もあった。でも、本当は、ジュリーに、その爪とコルセットが意味のあるものだと認めたことを思い出させるためのメッセージだったのだ。 僕が長いまつげの奥に潜ませた勝利の微笑みに、彼女の目はちょっとこわばった。でも、彼女はそのあと、僕がポイントをとったことを認め、にっこりと笑った。 彼女の笑顔は、僕への敬意がさらに少し増したことを示していた。たぶん、まちがいなく。 僕は、ずっと正しかったのだ。 女性であることは、たしかにたくさんの努力を要する。でも、それには多くの価値ある見返りがあるにちがいない。 スティーブは、彼自身の腰をカウチのふちまでずらし、後ろにもたれた。 彼はブラッドに一種の挑戦の微笑みを送り、そのあと、膝のそばにかがんだ僕のブロンドの髪を見た。 僕の目はジュリーから離れ、彼のズボンの前のふくらみに吸い付けられた。そのふくらみは、あまり見たことがないほどゆっくりした間隔で脈打っていた。少なくとも、僕が興奮しているときの鼓動よりは、ずっとゆっくりだった。 僕のルビーの爪が、彼のベルトに伸び、それを不器用に持とうとするのを、僕の視線の中で別の誰かが見ていた(それはジェイなのか? それともやはりジョイなのか?)。 その手を彼の手が優しくつかみ、彼自身がバックルをはずした。 彼のジッパーの上で、エレガントで、優美で、不器用な爪がもがくと、彼は、そこも、自らの手で下ろした。 その女性のものとはちがうヒップ、よくしまった尻は、ウエストとくらべてそんなに大きくはなく、ズボンを足首まで降ろすのに、なんの問題もなかった。 僕は、その時、彼の下着をもいっしょにおろしていた。それは、僕がもうひとつの生活で使っているのと同じ、シンプルなコットンパンツだった。 その脈打つ肉棒が、今日いちばんの勢いで僕に向かってつき立った。それは、プライドの大きさを示し、強く、そして、目を見張るほど‥‥大きい! 彼のコックは、その信じられない体の他の部分と同様に、巨大で、僕が秘かに隠しているものなどとはくらべものにならなかった。それは、別の種族に属する、動物よりすごいなにか、人類が進化した肉体といったものだった。 彼のものの中でも、その比類のない陰茎は、人間離れしている。人間以上のもの、あるいは少なくとも、現代人のイメージを越えるものだ。 気配を感じて、ちらりと見ると、視野の端に、ブラッドのコックが突き立った。 こちらは、ずっと普通のサイズに近く、僕の標準的な体にあるものよりちょっとだけ大きい程度だった。僕は、ジュリーが試すのがそれでよかったと思った。 僕は、ジュリーがめちゃくちゃにされることを望んでいるわけではない。 でも、僕が直面する問題は、彼女のよりずっと大きかった。もし、このサービスがうまくいかなくて、僕が男のコックをくわえるということの意味がけっきょくよくわからなかったとしても、彼女はけっして文句は言わないだろうと僕には思えた。 僕はまた、僕の中に別の誰かの視線があるのを感じた。 エレガントな爪で美しく形づくられた僕の手は、スティーブの怪物のような道具を包み込むために伸びた。というか、包み込めないまでも、少なくとも、それをつかんだ。 その時、僕は、やっとそれがどのくらい大きいのかを実感できた。その全体を囲むには、片手ではもちろん、両手でもできるかどうかわからないほどだったのだ。 その瞬間、僕は、狂気じみたイメージにとらわれた。今日の昼、スティーブがその手で僕のコルセットでしめたウエストを包み込んだとき、彼の指は重なり合っていた。それと、僕の両手でそびえ立つ彼のものを包み込んだときの指の重なりは、どちらが大きくてどちらが小さいのかを知りたいと思ったのだ。 僕の手に対する彼のコックの割合の方が、彼の手に対する僕のウエストの割合より大きいと思えた。 僕はこれまで、コックをこんなに近くで見たことなんてない。自分のもの以外のものにさわったこともない。 彼の脚の間にひざまづいた僕から見たその眺めは‥‥異様だった。 血管が、まるで厚いローブのように、その驚くほどすべすべな感じの亀頭の裏側に浮き出していた。亀頭の先端部分からは、どろっとしたしずくが微かに光りながらたれていた。 それは、いわば反射的な行動だったかもしれない。 僕の舌は、それが落ちきるまでに受け止めなければいけないとでもいうように、そのしずくに向けて突き出されていた。 スティーブは、感じやすくなっている表面への、突然の襲撃が予測できていなかったらしく、びくりと体を突っ張らせた。 そのしずくは‥‥不思議なものだった。 まずなにより、塩辛かった。 じゃこうみたいな香りの中で、ちょっとぴりっとしたそれは、本当のところ、思ったほど悪くなかったのだ。 おいしい‥‥男の味。 味というより匂いといった方がいいかもしれない。彼の興奮を象徴するその匂いを、僕は、なんだかすごく健全なものとして受け入れていた。それは、力強く、僕から欲望のようなものを引き出し、僕はまるで、将来彼と結婚し、彼の子供を産むのだというような感覚さえ抱きはじめていた。 でもそれは、僕がエロチックな愛情を感じているというのとはちょっとちがう。それは、現代的なラブストーリーというより、僕がどうやって自分の身を守るのか、無意識のうちに判断した結果の、条件反射とでもいう方がいいようだった。 ある意味で僕は、ジュリーとの距離を縮めるための道具として、スティーブを利用しはじめていたのだ。 僕は、唐突に、僕はゲイではないことを確信していた。どんな服を着ていようが、僕は女との関係より男の方がいいなどと思わないことがわかったのだ。 そして僕は、ジュリーの感覚や欲望をより深く知るために、男のコックをくわえたいと思っていた。 僕は、男のものを口に含むことで、これまでのどんなときより、彼女を愛しているのだ。 そして、僕は、まずそのさきっぽから口に入れていた。 ルビー色に輝く唇をできる限り開いて、スティーブのものの亀頭をゆっくりと含んでいった。 それは信じられないほど巨大だった。 僕は思いきり大きく口を開いたが、それでも、すべてを口に入れようとするとき、亀頭のへりのもりあがりを歯で傷つけそうな気がした。 そのへりまですべてを口に入れると、まるで野球のボールを押し込まれたようで、口の中がいっぱいになった。 それ以上は、もう口に入りそうになかった。厳密にはそうでなかったとしても、僕はそこで、舌を使い、口紅でふち取られた空間の中に収まったものの形や肌触りを探検した。その表面は、驚くほどソフトだったが、肌の下は、まるで岩のようだ。どうやら僕の舌は手よりもずっと敏感にそれを感じているようだ。 しずくがさらに出てきたので、僕はそれを丹念になめ、その複雑な味を味わった。 僕は、自然に目を閉じ、僕が探検しているその宝物以外の世界を意識の外に追いやった。 僕にはもちろん、彼がどうしてほしいのかわかっていた。でも、その期待に応えられるかどうかは、また別の問題だった。 膝を少し浮かせて、彼の大きなツールをもっとたくさんくわえられるように、そして、もっと奥まで入れられるように角度を変えてみると、僕ののどは、それを拒否して、むせそうになった。 僕は目を閉じたままだったので、僕がどのくらいそのそびえる棒を呑み込んでいるのか、よくわからなかった。 もしそれを見ようとすれば、より目のようになってしまう気がして、僕は手でそれを探ることにした。僕は、彼のコックの根本を両手で握っていたのだが、片手を上にずらしてみた。と、僕の唇から出ている部分は、僕の両手で持っても、まだ長さが余っていた。 スティーブは、腰を動かしたりなにか言ったりせずに、すばらしく我慢強く、僕の舌がその形を探るのに任せていた。 彼がじっとしていたので、僕は、僕の口が力ずくで無理やりレイプされるようなことはないのだと確信できた。 意識の一部で、僕は、ジュリーが僕と同じようなところまでいっているのに気がついていた。でも、それは、僕とちがって、彼女にとって初めてのことではなかったし、それに、彼女が相手にしているものは、僕のほど大きくはないのだ。 2・3秒後には、そのむせかえりそうな感覚に慣れ、僕は、スティーブのものをもっと奥まで受け入れようと、もう少しそれを呑み込み、のどを開くために押しあててみたた。 でも、蛇みたいにあごをはずすことができなければ、それを完全に呑み込むことなどできそうもなかった。それで、その変わりに頭を戻し、彼には、唇の愛撫で楽しんでもらうことにした。 すぐそばから、ジュリーのテクニックが伝わってきた。もっとも、僕は目を閉じているのだから、それは、ものをすする音や、その他の気配でということだが。 それで僕は、唇を前後に滑らせるだけでなく、彼のシャフトを吸い込んでみればいいことに気づいた。 僕は、肺の力で彼のものを口いっぱいに吸い込んもうとしてみた。 もちろんそれで、スティーブが動いたわけではない。僕の手ととがったヒールの足で、彼を引っ張りあげるなんてできるわけはないのだから。でも、そのイメージは、僕自身だけでなく、スティーブの感覚を高ぶらせはじめたようだ。 僕の唇が太い血管に被さった部分で空気が出入りし、それをすする音が口から漏れていた。 僕は、吸い込む力を強め、その間隔を早めた。 僕は、それが口からはずれないように気をつけながら、舌で亀頭のあちこちを打つことができる程度に頭を後退させた。 自分自身の経験から、それがすごく感じるとわかっていたので、僕は、唇を強くしめながら、舌の先を亀頭の裏側で震わせた。 もし僕が彼の立場だったらとてもがまんできないにちがいないのに、スティーブは、それでも動くのを押さえていた。しかし、僕が、リズムをさらに強めると、彼の呼吸が激しくなり、声を漏らした。 彼の顔を見たくなって目を開けると、彼の目は裏返り、まぶたを震わせながら目を細めていた。 そのリズムを壊さないようにしながら、僕は、ジュリーの方をちらっと見た。彼女もまた、僕がしているのと同じように、彼女の種馬に熱心にサービスしていた。 ブラッドはほとんど目を閉じ、その顔は満足そうだったが、スティーブほどに喜びの表情だったわけではない。 ブラッドは、彼に刺激を与えている女性と、昼間、ヨットの上でどきどきするような経験をしているわけではないのだから、当然といえば当然だろう。 ジュリーがしているペースに注意を払うと、彼女は、それを徐々に加速しているようだった。 僕も、それに合わせて加速していった。大きく口を開くことを無理強いされて、僕のあごはひどく疲れはじめていた。 でも、それはさほど心配することでもないようだ。スティーブは、彼の気持ちを抑え、僕に強要するより、僕がそれをやり遂げることを考えてくれているようだった。 僕は、彼が白目をむいたの見たときから、そろそろだとは思っていたのだが、少しして起こった実際の爆発は、驚き‥‥とてつもない驚きとなって、僕に襲いかかった。 濃度の高いクリームが次々に噴射し、僕の口いっぱいになり、あふれ出していた。 僕の顔は、彼の膝の上に覆い被さっていたので、口からあふれたものは、僕のきれいな服にではなく、彼のズボンの上にこぼれた。 ジュリーが意図してではなくセットしてくれていた髪型もまた、僕の口に触れることなく、汚れずにすんでいた。だから僕は、それだけに集中して、息が詰まる寸前のところまで努力し、その嵐を乗り切ることができた。 僕のあごの先から、それが大量に垂れていた。エレガントに振る舞うには、そのねばねばしたクリームの量は、僕ののどでどうにかできるものではなかったのだ。それは、太くてだらしないすじとなって下に落ちていた。 スティーブは完全にイッていたので、僕が、まわりを見たのに気づかなかったようだ。 僕は彼から最後のミルクを搾り取りながら、周囲に視線を走らせ、さっきフルーツカップといっしょに持ってきていたナプキンを見つけた。 彼のコックから片手を離し、長い爪の先でそのナプキンをとると、僕は、あご先にそれあてて、あふれた男のミルクを拭き取った。 それをきちんと拭き取ったとき、彼は、終わりの印の身震いをした。そして、すぐにそれは出なくなった。 彼は、焦点の定まらない目を開けた。僕は彼を見つめて笑いかけたが、僕の口は、まだそれをくわえて大きく開いたままだった。 舌の先で最後の一撃をくわえると、彼は、一瞬びくりと腰を浮かせた。敏感になっているその先っぽに、その感覚は強烈だったようだ。 彼は、歪んだ顔をなんとか笑顔に戻し、その巨大な手で優しく僕の顔を起こすと、座り直し、平静に戻ろうとしていた。 ちょうどその時、ジュリーは、それを受け入れようとしていた。ブラッドが声を漏らしながら、のけぞった。 彼女は、ちょっと身を引くようにしたが、僕がスティーブのプレゼントをできる限り呑み込んだのをわかっているらしく、それを口から離さず、ブラッドのクリームを飲み始めた。 じつは、彼女は、その赤い唇から漏らすことなく、それを僕よりうまくやってのけた。 あるいは、もしかすると、ブラッドが出した量は、彼のもののサイズと同程度だったのかもしれない。僕がそのすべてをうまく飲めなかったのとくらべれば。 現に、スティーブは、僕がうまくできなかったとは思っていないようだ。 彼は、こっけいに見えるほど、満足の微笑みを浮かべていた。巨大な男が、まるで、幼児のように幸せそうな表情をしているのだ。 彼は、カウチにゆったりともたれかかり、ゆっくりと深呼吸していた。 僕は、そびえるヒールで一気に立ち上がり、そして言った。 「もし、あなたたちジェントルマンが許してくれるなら、あたしたち、顔を直しに行きたいんだけど。スティーブ、ズボンのシミを水で拭き取った方がいいかもしれないわ。玄関の方に行った最初のドアが洗面所だから」 僕はジュリーの手をとると、いっしょに家族用のバスルームへと向かった。 そのしぼりつくされた種馬たちが見えないところまでくると、ほとんど同時に、ジュリーは、僕に腕をまわして、きつく抱きしめた。 彼女は口を、僕の口に押しつけると、まだブラッドの味がいっぱいに残っている舌を差し入れてきた。そして、僕の舌と、僕の方の味を調べるようにした。 「やったわね!」 彼女は口を離すと、うれしそうに言った。 「あなたがそこまでやるなんて、思わなかったわ」 「君だってやったんだよ」 彼女が個人的な勝利をひけらかしているのではないことを確信しながら、僕は言った。 「そう! 私たち、やったのよ! ああ、ジョイ、私、あなたを、それに私たちをすごく誇りに思うわ。あなたって、どんな女も持ったことがないような最高の夫だわ」 「シーッ!」 僕は、あわてた。 「もし、そんなこと聞かれたら、僕がどんなによかったにしても、すぐに殺されちゃうよ」 彼女は笑いながら、しまったというように肩をすくめた。その時には、僕らはバスルームまで来ていたから、もう安心できた。 彼女の顔は、喜びに輝いていた。それは、これまで僕らが見つけてきた喜びのどれにも優るものだし、二人で分け合ってきた喜びのどれよりもすばらしいものだ。彼女がなにに幸せを感じているかなんてさほど重要なことではない。 僕は、彼女が喜びを感ずるようなことは、これまでほとんどなにもしてこなかったということがよくわかったし、だからこそ、それがどんな理由であれ、この結果に満足しているのだ。 僕のメイクが崩れてしまったところをふき取り、少なくとも顔の下の部分を直す間も、彼女は喜びの表情を崩さなかった。 ちょっと赤面気味でもあったのだが、僕の瞳と頬は、彼女への感謝の心に満ちていたと思う。 彼女は、僕のあごの輪郭をふたたび女性的な柔らかさにふちどり、そのあと、口紅を塗り直してくれた。 僕の顔は、すぐにできあがり、それは、前よりきれいに見えた。その表情に、新たなプライドが付け加わったせいかもしれない。 ジュリーも、化粧を直した。彼女の口からあごにかけては僕ほど乱れてはいなかったので、彼女はそんなに時間がかからなかった。口紅を塗り直すだけでよかったのだ。 そして、僕らは、僕らの男たちのもとへ戻る準備ができた。 彼らも、身繕いを終わっていたが、スティーブの濃い色のスラックスには、さらに濃い部分がかすかに残っていた。それは、なにかがあったことの明白な証拠だった。 僕らの男たちは、待っている間に、新しいワイングラスを用意していた。彼らが持ってきたもう一本のワインの栓が抜かれ、そのすてきなシャンパンが注がれていた。 彼らの持つグラスで、柔らかな泡がはじけ、テーブルのはじには、あとふたつのグラスが、僕らを待っていた。 僕はそれを取り上げ、レディらしく見えるように気をつけて、少しずつ飲んだ。今や、彼らの目には、僕はとてもレディとは見えないというのに。そのかわり彼らには、僕は、女そのものに映っているだろう。 でも、それはたぶん、彼らの許容範囲内での変化に過ぎないはずだ。 「うーん、あんまり甘すぎず、香りがあって、気持ちよくはじけてるわ。どこをとっても、悪くない」 僕は、そう言ってにっこりと笑った。 「おいしいわね、このシャンパン‥‥も」 ジュリーも、くすくす笑いながら言った。 その言葉に、僕らはみんな笑い出していた。 ジェイが笑うときのような大笑いでなく、女性らしいくすくす笑いにとどめておくのには、自分自身をかなり意識的にコントロールしなければならなかった。 「で、男の子たちは、オーケーだったかしら? あたしたち、まだレッスンが必要?」 僕は、そうからかった。 前にブラッドとジュリーがしたのと同じように、今度はスティーブとブラッドが同じタイミングでコーラスするように答えた。 「もちろん」 ジュリーがそれにつづけた。 「どっちなの? オーケー? それとも、もっとレッスンが必要?」 「その両方」 今度は完全にいっしょにではなかったけれど、彼らはそう言った。で、僕ら全員、ふたたび笑いの渦に包まれた。 スティーブが僕に近づき、抱き寄せて、許可を求めることなく、情熱的なディープキスをしてきた。それは、僕らの新しい関係にとっては、まったく自然なこととでも言いたげなものだ。僕にとっては、もっとはっきりさせなければならない関係だったけれど‥‥いずれは。 ブラッドも、ほぼすぐにジュリーに腕をまわした。でも、たとえジュリーがまだ結婚していなかったとしても、彼らは友だち以上の関係にはならないだろうという気がした。彼らが友だちであることを見ているのは、気持ちがいいと、僕は感じていた。 べつにジュリーと話し合ったわけではないが、僕は、しばらくの間、ジョイは消えないだろうと感じていたのだ。 シャンパンがなくなり、そろそろ、男たちが帰る時間になった。 ドアまで送って、僕らは、それぞれに熱いディープキスを交わし合った。 スティーブはまた、僕のすべてを包み込むような抱擁をし、僕は、男とはちがう、女としてのすてきな感覚をふたたび思い出した。それは、パワフルな男に身を任せてしまうことによって得られるものだった。 彼は、僕の体にその感覚を二度、三度と呼び起こさせた。 もし、ブラッドが後ろから彼の襟を引っ張って外に連れ出さなければ、僕らは、いまだに、それをつづけていたにちがいない。 別れの笑顔のあと、彼はもう一度、僕を締めつけるように抱く(僕は思わず、よろいのようなコルセットに感謝していた)と、友だちの後を追い、僕らは信じられないような冒険のドアを閉めた。 「ねえ、わかってる、ジョイ?」 「なにが?」 ジュリーの言葉に僕はきいた。 「今夜のところ、男たちはあれで気がすんだでしょうけど、私たちはまだ、すんでないのよ」 僕は笑い返した。 「そのとおりだね、僕の愛する奥さん。君は、僕らが最後にセックスしたとき以降、なにか新しいことを身につけたんじゃないかな?」 ジュリーはくすくす笑いながら答えた。 「あら、そうね。たぶん、ひとつかふたつは」 その夜、僕らは、女同士がするようなやり方で、抱き合った。 僕らは、その薄いシルクのドレスと可憐なレースのパンティーを脱いだ。 ジュリーは、僕の体から、その魔法のガフを取り除き、ガーターからストッキングをはずした。 色の濃いストッキングとストラップに囲まれた唯一の信じられないような例外を除けば、僕らは、二人のゴージャスな美女だった。それは、男たちがきっとねたむにちがいないけれど、けっして共有はできない交わりなのだ。 特別な男、つまり、男であり女でもある、雄であり雌でもある、男の子でもあり女の子でもある、僕を除いては。 僕の文句にジュリーが腹を立てたとき、誰が、こんな結末になると予想しただろう。 そこでジュリーは、新たに手に入れたテクニックの壮大な効果を披露してくれたのだけれど、そのテクニックは、僕らがあの二頭の種馬と取り組んだ時とは、ちょっとちがうリズムを持つことになった。 僕は、彼女がしてくれている間、彼女を置き去りにしたりはしなかったのだ。 ジュリーは、ベッドの上に反対向きに寝て、差し上げたエレガントな手を上品にまわすようにして僕を誘った。僕は、その意味を理解し、彼女のシルクストッキングの間に頭をうずめた。同時に、クリーミーな唇が僕のものをとらえ、瞬く間に興奮させた。 そこで僕は、スティーブのものをくわえていた時、そこがこんなにはならなかったことに気づき、そのことで、僕の興味が未だ女性に向いていることを確認できた。さっきの冒険は、愛の作用というより、冷静な科学実験に近かったのかもしれない。 今の僕は、愛や、求め合う心や、あふれ出す欲望を、まちがいなく妻と共有していた。 たしかに僕は、スティーブとのキスを楽しんでいたし、僕の中に生まれたジョイが、彼女なりのメンタリティを持っているのも事実だろう。でも、僕の体の奥のホルモンの流れは、未だ、女性への興味に向かっていた。 才能あふれるジュリーの唇は、その新しく開発した技を、魔法のように使いこなしていた。彼女がブラッドにもたらしたのと同じ増幅力が、僕にももたらされた。いや、たぶんそれ以上だ。だって僕は、彼女自身のものに触れる口の動きを途絶えさせないよう意識しつづけ、その結果、彼女の方もその刺激に導かれるように僕のそこを吸い、そのことによって引き出される僕の感情が、僕自身に、これまでにないものを与えているのだから。 僕は、二人の喜びのために僕が果たすべき役割をまっとうしつづけた。そんな僕の本心からの行為が、彼女を何度か絶頂へと登りつめさせた(たぶん2回か3回。数えてたわけじゃないけど)。 二人そろって果てたあと、僕らはしばらくの間、じっと横たわっていた。たとえ、絞めつけるコルセットが呼吸を許さないという条件がなかったとしても、そう簡単には回復できないほどの運動量だったのだ。 やっとのことで動けるようになり、転がり落ちるようにベッドを出た。 ジュリーは僕を鏡台の前に座らせると、崩れたメイクを落としてくれ、コルセットをはずすのを手伝ってくれた。 僕も彼女に同じことをしてあげ、そのあと、ネグリジェを探していると、ジュリーがそれをとめた。 「ごめんね、ジョイ。あなたには少しの間、消えててもらわなきゃいけないの。ジェイには、そのオッパイをはずしてる時間が、少なくとも1日は必要よ。それに、そのオッパイがどんな性質のものなのかを認識しておくためにも、今夜は男物で寝た方がいいと思うわ」 彼女は外科用のりの剥離剤を取り出し、間もなく、平らな胸が、違和感とともに戻ってきた。人生のほとんどをこの胸で生きてきたというのにもかかわらず、そこには違和感があるのだ。納得できないまま受け入れざるを得なかったからというだけでなく、ここ数日、僕はその乳房を自分の一部だと感じていたからだろう。 おっぱいに次いでウィッグも消え去り、体毛のない体と真っ赤な長い爪を除いて、僕は男に戻っていた。 あたりまえのTシャツと綿のバンツは、敏感になった僕の肌にはみじめなほどがさがさした感触で、なかなか寝つけそうにない気がした。でも、今日一日のストレスと興奮は、頭が枕に埋まる前に、僕を眠りの世界に引きずり込んでいた。 その朝もジュリーの方が先に起きたのだが、彼女はベッドを出ないで僕をつつき、僕はそれにいつもの不機嫌で応えた末、やっと理性的な会話が成り立つところまで目を覚ました。 「ジェイ。私たち、今やってることをどこまで続けるのか、決めといた方がいいと思うの」 彼女はそんな言葉からはじめた。 「あなたは私を納得させたわ。私に対するあなたの要求が、まともなことだったっていうだけじゃなく、楽しいことで、面白いことで、すてきなことなんだって、途方もない実例で示してくれた。私のオシャレについて、今後あなたが提案してくることに、できるかぎり応えるつもりよ。だから、もしあなたが望まないんなら、もうジョイになる必要はないの」 僕の顔で、その言葉に対する落胆が、ネオンサインのように点滅するのが見えたはずだ。 もうジョイになれない! お願いだから、僕を、僕らが見つけた満ち足りた時間から追放しないで! でも、僕はそんな動揺をなんとか抑え、結論に飛躍する前に(そしてそれが昨日までの僕を否定するようなものになる前に)、少なくとも、聞き返すだけの余裕は取り戻した。 「僕にジョイでいてほしくないの?」 「今よりもっと、そうなってほしい。でもそれは、私のファンタジーの中の話。現実としては、あなたはもう私を納得させたし、あなた自身も変わったわ。だから、ジョイが必要だとしたら、それは、あなた自身がジョイを望む場合だけ」 「僕が、望んでるんだ。今よりもっと、ジョイになりたいって」 僕は、彼女の表現を真似て言った。 「僕は、ゆうべ、君が僕のおっぱいをとった時、泣きたいような気分になったんだ。乳ガンになった女の人って、きっとあんな気持ちになだと思う。僕が‥‥あたしがあたしであることのいちばんかんじんな部分をはぎ取られたような気がした。もしかしたらいつか、目新しさや物珍しさがなくなった時、僕はこれに飽きるかもしれない。でも、すくなくとも今は、あたしの胸や、あたしの髪の毛や、それにコルセットも、一刻も早く取り戻したい。ジョイでいるためにね」 と、ジュリーが、僕をつよく抱きしめてきた。彼女の目から、うれし涙があふれていた。それが、僕自身の涙をも呼び起こした。 「ごめんね、ジェイ。爪はだいじょぶだとしても、皮膚呼吸のためには、少なくともまる1日は男の格好をしていた方がいいと思うの。お医者さんの意見では、コルセットも、筋肉がそれに依存して弱ってしまうから、ずっと着けつづけない方がいいっていうし。それに靴もね。やっぱり今日一日は、あなたのプロジェクトのために使ってくれない? で、明日の朝、またはじめましょ」 彼女の言うことは、たぶんまちがいっていないのだろうけれど、僕はその日、ひどく居心地の悪い一日を送った。 ジェイに戻って過ごしたこの最初のタイムアウトで、僕の感覚が、ジョイの服装の方によりなじんでしまっていることを思い知らされた。より低い身長から見る世界や、背筋を伸ばさず猫背になっていることや、髪をとくとすぐ終わってしまうことなどのすべてに違和感がある。メイクや髪の毛のない自分の姿を鏡の中に見てがっかりする方が、長い爪を煩わしがったり気にしたりするより、ずっと回数が多かった。 そうしたことで言えば、この日、2つのおかしな問題も起こった。 朝食後、なにかの配達がやって来た。ベルの音に僕はつい手を伸ばし、その真っ赤に手入れされた指先をドアノブにかけていた。そこで、もし開ければ、相手にそのことを説明しなければいけない困難に直面することに気づき、あせって身を隠した僕は、代わりにジュリーを呼んだ。ドアを開けたジュリーに配達の男が手渡したのは、僕たちそれぞれにあてた2つの巨大な花束だった。 その両方に、ジュリーが受け取りのサインをした。 もし僕しかいなくて、僕がサインしていたと思うとぞっとする。ジョイの代理として「ジェイ」と書いたとしたら、その長い爪を使うことで、僕の秘密はばれることになる。配達の男は、その花の送り主を知っているだろうし、たぶんそこで見た男のことをスティーブに御注進するにちがいない。それは僕にとって、いちばんまずいことだ。 もし僕が「ジョイ」とサインしたならどうだろう。男は爪以外、それを認めようとしないだろうから、やはりまずいことになる。 まあ、実際には起こらなかった問題をあれこれ言ってもしょうがないが。 もうひとつの問題は、僕が着ていた男物の服についてだった。 午後の時間が過ぎていくにしたがって、僕のあちこちの皮膚が、その服でこすれて赤くなってきた。僕はがまんできずに、この日2度目のバスを使った。肌がソフトですべすべの感触を取り戻すまで、贅沢なバスオイルにつかっていたのだ。そのあと、ブレストフォームを着けていた場所に、かすかに胸毛が顔を出しているを見つけ、それを剃ったりもした。 そんな長い入浴のあと、バスタブを出た僕は、もうラフなジーンズやTシャツを着る気になれず、サテンのネグリジェに袖を通した。 安楽椅子に座ってテレビを見ていたジュリーは、そんな僕の姿に気づいたようだが、なにも言わず笑った。僕の妥協を許してくれたようだった。 「お風呂に入ってる間に、スティーブから電話があったわよ」 彼女がそう言った。 「えっ? 何か言ってた?」 「来週、あたしたちとブラッドをセーリングに招待したいって。二人とも行くって言っといたわ」 「いいね。君もきっと、ボートが好きになるよ」 と、ジュリーがくすっと笑った。 「私たちまた、あの人たちをここに招待することになるのかしら?」 「そんなのまずいよ。君はそうしたいわけ?」 僕は、どぎまぎする気持ちを拒否し、あわてて言った。 彼女は、僕が彼女の予感をどこかで承認していることを見て取ったのだろう。笑いながらつづけた。 「ウソよ。ちゃんと用心して、誘ったりしなかったわ。でも、遠回しに誘導したら、スティーブの方からディナーに連れてってくれるって言い出したわ。二人とも、新しいドレスを買わなきゃね。きっと、あたしたち、何回かのキスだけでのりきれるわよ。‥‥ご不満?」 「僕は‥‥あたしは、あなた以外にはなにもいらないわ」 僕はそう言った。 「男の子たちは楽しみよ。でも、あたし、マジにはならない」 ネグリジェを着たせいだろうか。僕は、彼女が座る椅子の肘掛けの上に両脚をのせ、彼女の膝の上に身を預けていた。 彼女は笑って男役を引き受け、両手で僕の体を抱いてくれた。だけど、僕の痩せ形の体でも、美しい妻には重そうだった。それで僕は、早々に立ち上がった。 その日の残りの時間を、僕は、スペンサー工業への侵入工作の仕上げに使った。 僕は、僕(実際にはジョイ)を、彼らの重役会議のメンバーとして仕立て上げることに決めた。僕の痕跡を見破られず、報告されることもなく。それを実現するために、僕は彼らのコンピューターに、ジョイは問題のない人物だと信じ込ませた。要するに、彼らの脆弱な防護機能を解いてしまったのだ。それから、僕あてに、10万ドルを超えるものを含め、合計100万ドルの小切手を振り出させた。それは、本来なら、スペンサー社社長、リチャード・バンクロフトの個人署名なしにはできないことだ。また、ついでに、スペンサーの予算で、僕がファーストクラスでのハワイ旅行をできるようにも仕組んだ。 ただ残念なのは、これらささやかなプレゼントを、僕が実際には受け取れないことだ。 交互に男と女の服を着ることは、僕らの生活――少なくともジョイの生活――の新しいパターンになった。ジュリーは2・3日のうち1日は、僕に男物で過ごすことを主張した(そして、僕もそれを認めた)。この信じられないような冒険のファーストステップとなった美しい爪だけは、そこから除外されたが。 僕はときどき、仕事に没頭するような時、まる1日以上ジェイとして過ごした。それは、ジョイの服装に不都合や不快感があるからではない。僕はすぐに、ジョイの服を僕にとってより自然なものだと感じるようになったし、実際、ラフな男物の生地の方を不快だと感じるのだ。 要するに、忙しい時は、エレガントに変身するための時間が確保できないということなのだ。そんな時は、少なくとも、かつてジュリーが言っていたことは正しいと思う。こと、それが要求する時間に関しては、そんな服装はうっとうしいだけだ。でも、たとえば自由な時間がたっぷりあるような時、僕はそれを価値あるものだと思う。 もちろん今では、ジュリーも、そんな僕の意見に賛成している。でも、僕の方も、まったく同じ理由で自分の見解を変えた。 僕がコルセットと高い靴を着けていない時、彼女もそれらを着けない。結果として、僕らは、いつもお似合いのペアとなっている。 ジェイが現れている時、ジュリーは、メイクとヘアスタイルをいじるくらいで、カジュアルな服装をしている。それは、このささやかなテスト以前と変わらない姿だ。 ジョイが現れている時、ジュリーは、同じようにエレガントに着飾り、同じように女としての醍醐味を味わう。人目を引き、あでやかに、官能的に振る舞うのだ。 スペンサー・プロジェクトを終了する時が来て、僕はジェイの声を使い、専用回線でバンクロフトに電話した。 「ミスター・バンクロフト、プレゼンテーションの準備ができました」 「ふむ、つまり、君は降参したってわけだね」 彼は、ほくそ笑むように言った。 「そうでもないです。僕は、2・3の問題を見つけるのに成功しました」 僕の明らかに笑いを含んだ声が、スペンサー社長をいらいらさせたようだ。 「信じられないね。うちにはシステムをモニターをしている人間がたくさんいるが、誰ひとりとして君の侵入を報告していない。私は、君の失敗をBBSに書き込み、君の法外な請求からも免れるってわけだ」 その言いざまに、僕はキレた。そして、掛け金をつり上げようと決めた。 「今の言葉に、いくらのお金を出すつもりですか? ミスター・バンクロフト」 「ん? なにが言いたい?」 彼は、多少は正しい認識に立ったらしく、いぶかしげな声をあげた。 「僕の言いたいのは、こういうことです。僕はおたくの月曜の重役会議に成果を持って参上します。あなたは社員たちに僕を入れるなと命じてください。もし、僕が首尾よく会議に出たら、あなたは約束の倍支払う。もし失敗したら、僕は無料で、僕の発見したシステム上の問題を解消しましょう。賭けますか?」 「賭けよう」 バンクロフトは同意した。 「社外の男は誰も、会議室に近づけないようにしておくさ」 「ご健闘を祈ります」 僕は、漏れそうになる笑いをこらえながら言った。社外の男は会議室に近づけないだろう。男が行くとは言ってない。ジョイが行くのさ。 今の会話が、まだはっきりと決めていなかったこのプロジェクトの仕上げのために、ちょっとした動機をつけ加えた。僕は、スペンサー社の個人記録(プロテクターがかかったファイルだ)を開いて、ロングブロンドの重役秘書を一人見つけた。彼女のボスは、例の会議に参加することになっている一人だった。僕は、この二人の社内専用メールを、侵入のパスポートとして使うことになるだろう。 約束の日、僕は、サラリーマンや秘書たちであふれたスペンサー本社のエントランスに近づいていた。僕は、びしっとした女性用のビジネススーツを着ていた。濃いチャコールグレイで、中には、僕の爪とおそろいの輝く赤のブラウスを合わせている。今のところ僕は、メイクと仕草を、ちょっとおとなしめに抑えていた。僕の圧倒的な美貌と人並みはずれたヒールの高さは、ただでさえ人目を引くのだ。 スペンサー社の電子アクセスシステムは、バッジと個人のコードナンバーを基礎にして成り立っている。コードナンバーは、バッジを紛失したり盗まれたたりした時の補助的なシステムとして使われている。僕の偽造バッジは、入口に設置されたリーダーをあまり感動をさせられなかったようだが、僕があらかじめセットしておいた特別のコードナンバーは、なんの支障もなく僕を通してくれた。その会議が開かれている棟の区域まで近づくのにも、僕は、同じ方法をくり返せばよかった。 その会議室の入り口の前には、制服のガードマンが立ち、入っていく男を一人ずつ厳密にチェックしていた。女も同じようにきっちりチェックしていたが、その関心の度合いは明らかにちがうようだった。 その会議室の入口が見張れる誰もいないブースを見つけ、僕は、スーツの上着を脱ぎ、ブリーフケースを開けて、プロジェクトの成果である書類の束とノートパソコンを取り出した。 個人ファイルの写真で確認していたターゲットの重役が、その部屋に入っていった。そこで僕は、彼のオフィスにいるブロンドの秘書を電話で呼び出した。 「もしもし、ジョイ・ドレッサーです。ミスター・スタンフィールドはいらっしゃいますか?」 「いいえ、今、会議中で席を外してますけど」 彼女は僕が予測したとおりの返事をしてきた。 僕は、困った芝居をしながら言った。 「えっ、そうなの‥‥? あたし、たった今、社内メールで、その会議に必要な書類を送ったんですけど‥‥。急いで、届けてもらえません?」 「ええ‥‥、でも、その会議、なんだか特別な種類のセキュリティが発動されてるらしいの。入室禁止なんですって」 予想どおりの問題を、彼女は告げてきた。すべては計画どおりに進行している。もちろん、僕はそこで、あるファイルを送信した。数秒後には、彼女のコンピューターに着信するだろう。 「彼に電話して、そのファイルがいるかどうか、きいてみてくれない? 重大なことだと思うから」 僕は、彼女にすがるように言った。 「うーん‥‥」 彼女はちょっと考え込んだ。 「‥‥あっ、今、メールが届いたわ。あっ、彼の担当事業の新しい予算書じゃない。わかったわ。すぐに呼んでみる。ちょっと保留にするわね」 僕は、ちょっとしたトリックで別に確保しておいた2番目の回線に耳を傾けた。そして、彼女がボスであるスタンフィールドに、その数字が必要がどうか質問するのをきいていた。 僕はあらかじめ、関係部署から彼に宛てたように見せた偽のメッセージを送りつけていた。そして、予算変更があると知らせていた。必ずその会議に間に合うように送ると伝えてもいた。そのメールを待っていた彼は、それが届いてなくて、たぶんいらいらしていたにちがいない。 スタンフィールドは、秘書に、そのファイルを印刷して届けるように命じた。そして次には、あのガードマンに、ひと声かけるはずだ。 ‥‥ビンゴ! 電話を切った後、スタンフィールドは、会議室を出てきた。 「私の秘書が、数分のうちに、重要書類を持ってくるはずだ。きれいなブロンドの子だ。来たらすぐに入れてやってくれ。もちろん、彼女以外はだめだからな」 それを見ていると、保留になっていた方の回線から、スタンフィールドの秘書が、自分が書類を処理するからと伝えてきた。でも、僕は、もうそんなことを聞いてはいなかった。このドラマでの彼女の出番は、もう終わりだ。その書類をプリントするのに少なく見積もっても5分。彼女のオフィスからこの会議室までやって来るのにさらに5分。 それよりはずっと少ない時間でことは終わるだろう。僕の腕の細身のレディスウォッチが、7分くらい経過する頃には。 僕は、エレガントなマニキュアの手で僕自身の書類を抱え、ガードマンに近づいた。細くそびえるヒールが、僕の一歩一歩にすてきなスイングをつくり出し、ガードマンの表情が、少なくとも喜びをベースとしたものに変わっていった。 僕がドアのところまで来ると、彼はすぐにそこを開けてくれた。 「ぞうぞ、ミス。皆さん、お待ちですよ」 あたしを待ってるわけじゃないんだろうけどね、と僕は思った。 部屋に入ると、僕は、上品な歩き方でスタンフィールドのところに行った‥‥わけではなく、自信に満ちた大股で、会議テーブルのいちばん上座、バンクロフトの隣まで歩いた。 もちろん僕は、スリムなスカートをはいているわけで、そんな歩き方は、会議参加者の視線を集めることとなった。 誰かがなにかを言い出す前に、僕は、そのニセ書類の束を、スペンサー社社長の前にバサリと置いた。書類のトップに、例の10万ドルの小切手をのせておいたことは言うまでもない。 「ミスター・バンクロフト。ジョイ・コナーよ。契約フィーの2倍払ってくださるってお約束、守っていただけますわよね」 その言葉のなんと心地よいことか。 もちろん僕は、それをソフトで女らしい声で言っていた。 あたしはジョイ(喜び)。文句は言わせないわ。 「し、し‥‥しかし、き‥‥君は、女の子‥‥」 彼は、口をもつれさせながら言った。 「あら、まあ、ミスター・バンクロフト。その言い方、性差別主義者だと思われますわよ」 僕は、ほくそ笑みながらつづけた。 「あなた、成人男性のこと、『男の子』なんて呼びます? より社会的に正しく言えば‥‥あたしは、女性よ」 「し‥‥しかし、ジェイ・コナーズは、男だ!」 僕の笑顔は、明らかにいじわるなものだったけれど、それでもまだ、エレガントな美しさを保っているはずだ。 「ええ、おっしゃるとおりよ。で、ジョイ・コナーズは女。あたし、時と場合によって、ちがったアイデンティティを使い分けられる方が便利なことを発見したの。たとえば、今日みたいな場合ね」 「君は、ほんとはいったい、どっちなんだ」 ショックで椅子からずり落ちそうになりながら、バンクロフトは言った。 そんなことは、本質的には、重要なことじゃないのだ。でも、ごちゃごちゃになった彼の頭は、ものごとに秩序をとりもどすために、とりあえずなにかをつかまえたいと思ったのだろう。 「どっちか、その時、見えている方」‥‥というのが、僕の答えのすべてだった。 そう言ったあと、僕は、ソフトなしゃべり方に強い語調をまじえ、それに多少の脅しも込めて言った。 「あなたが本当の性差別主義者になりたくないとおっしゃるなら、そして、ストリップ調査などお望みでないのなら、あたしのことをジョイと見なしていただきたいわ。もちろん、あなたがどうしてもジェンダーを明確に分けたいとおっしゃるなら、ストリップ調査の方を選ぶこともできるわね。あまりお薦めはしませんけど。それに、もし、そちらを選ぶなら、あたしはきっと叫ぶでしょうね。『レイプよっ!』って」 彼は、すでに追いつめられ、困惑しきっていた。重役たちも、同様にショックを受けているようだった。 きっと、バンクロフトはついさっきまで、彼らの会議にやってくると言ったコンビューター・ハッカーについてジョークをとばし、大笑いしていたにちがいない。今、そのジョークは、彼と彼らの目の前の現実になってしまったわけだ。 でも、けっきょく僕は、そんな彼らに同情し、僕が手にした成果について、専門家としてのプレゼンテーションをはじめた。僕は、僕が偽造した小切手を見せ、その問題の解決方法を示した。ニセの出張承認書を提示し、その解決方法を提案した。 最後に僕は、バンクロフト氏自身の身辺セキュリティの問題点を指摘した。その問題の解決が、おそらく最も重要だ。それは、何か所かにガードを増員することだ。もう少しちゃんと働く、人間の、ガードマンを。 僕の仮説では、コンピューターに無知な人ほど、僕みたいなハッカー以上に、コンピューターを信用しているものだ。 僕は、優しく女らしい微笑みと、挑発的な赤い唇とともにプレゼンテーションを終えた。 「それで、ミスター・バンクロフト、あたしの仕事に、あなたを満足させるだけのものがありまして?」 話の途中のどこかの時点から、バンクロフトから不遜な傲慢さが消えていた。彼は、自分たちの盲点を素直に認め、直していこうとする本物の経営者のようだ。そして、僕が価値あるサービスを提供できる人間であることも理解したようだった。 「うむ、ミス・コナーズ。とても内容のあるものだったよ。君の提示した特別料金に、さらにボーナスをつけ加えてもいいと思っている」 「ありがとうございます。今後、あたしに、御社の仕事をお任せいただけますか?」 僕は、テーブルの上のものをとりまとめながらきいた。 「ぜひ、お願いしたい。‥‥で、その‥‥、ミス‥‥いや、‥‥ミズ・コナーズ。私は、本気で知りたいのだが、君は、男性か、女性か‥‥?」 バンクロフトはきいた。 「イエス」 僕は、僕のすべてを表す答えとしてそう言い、彼にチュッとキスして部屋を出た。 僕は、男か女か? ‥‥イエスこそが、唯一の正しい答えだろう。 僕は、ジュリーが僕の中に女性的要素を発見するように仕向けた時点から、まちがいなくそれ以前の男として範疇を越えてしまった。そしてまた、女という範疇にもおさまらない。でも、僕の世界は確実に豊かになり、面白いものにもなったのだ。ジュリーが教えてくれた、人生の中に「ジョイ」を見つけ出す方法によって。 まあ、ともかく‥‥僕らはそろそろ、行かなくちゃいけない。 彼らが、僕たちをセイリングに連れてってくれるんだ。 今日、僕らはまた、男を喜ばせる別のやり方を、彼らから教えてもらうことになるんだろう。‥‥というか、そう仕向けるんだろう。 青い空に太陽が輝いているし、僕たち二人はショートパンツだし、その上僕らは、ウエッジヒールのついたデッキシューズを買ったんだ――これは、僕らの脚をすらりと長く見せてくれるはずだ。 そしてもちろん、陽に焼けた肉体の男たち‥‥。 僕ら二人は今日、とてもすてきに見えるはずだ。だから男たちは、僕らのことを宝物のように扱ってくれるにちがいない。で、もしかすると、僕は‥‥あたしは、また、スティーブにチャンスをあげてしまうかもしれない。逞しいそこに、お尻をこすりつけるようなことをして。 幸運を祈ってて。 Based on the text FictionMania Translated by Rino Maebashi この「リーズナブル (日本語版)」は、 ブランディ・デュインターさんのオンライン小説を、 前橋梨乃が翻訳したものです。 原作著作権はデュインターさんが、翻訳著作権は前橋が保持します。 個人で楽しむ以外、無断でのコピーを禁止します。 |