●“「らしさ」への反感”――自己分析


なんで、「男が女になる」というような物語世界にここまで惹かれるのか、そのおおもとは、本当のところ、自分でもよくわかりません。
どうも、物心ついた頃から、そういうセクシャリティが自分の中にあったような気がします。でも、厳格な家庭で育ったわけではないので、たいした抑圧もなく(「男らしくしなさい」なんてこと、一度も言われなかったという意味です)、そのこと自体ではあんまり悩むことはありませんでした。「ちょっとフツーとちがうのかなぁ」という感覚だけを、小学校の頃から持った程度です。

ただ、こういう小説を書いて発表してみたいなどと思うようになるエネルギーの源は、わりとはっきりしています。
それは、小学校時代からつづく、世の中へのある種の反感からです。


ひとことで言えば、私は「体育ができない男の子」だった。そのくせ、自意識だけは強かった。

小学校、中学校で、スポーツのできない男の子というのは、極言すれば、何者でもない存在です。
私の場合で言えば、成績は悪くはなかったし、絵を描いたり、工作したり、プラモデルをつくったり、電子部品でラジオを組み立てたり、詩を書いたり、学級新聞の編集をしたり、学芸会とかの出し物を企画したり、あるいは、料理をしたり、編み物をしたり、ぬいぐるみをつくったり(とにかく「ものをつくる」ということに執着があって、そういうこともしてました)とかいうことは器用にできる子どもでした。
ところがやっぱり、かっこいい男の子と言われるのは、サッカーや野球がうまい子なわけです。
で、なんとか目立ちたくて、生徒会長をやったり、楽器を練習したり‥‥。でも、おいしいとこは、けっきょく、球技大会で逆転ゴールを決めたヤツにもっていかれてしまう。それがなんだか悔しくて‥‥。

今考えると、どうしてそこまで自意識過剰だったのか、恥ずかしくもなりますが、そんな中で、どうしても「男らしいって、なんなんだよ」と考えてしまったわけです。

もっと切実な問題としては、マッチョでデリカシーのかけらもないようなヤツにカツアゲされたりって体験も、そんな「男らしさ」への反感につながっています。

一方、女の子の場合は、スポーツができるかできないかではなくて、「かわいい」とか「きれい」とかいうことがポイントになるわけです。
で、長い髪にきれいな洋服だけで注目を集めてしまうそんな美人の女の子にも嫉妬していたような気がします。それを意識的に武器にして使ってるような子はまだ許せるのだけれど、「無意識の女らしさ」を振りまいて、男に媚びることが身に付いてしまっているような子には、やはり強い反感を持っていました。

要するに、私は、自分の性を一度も疑ったことがないようなヤツが嫌いだったのだと思います。

まあ、そんな私も、大人になる過程で世間にもまれて、そこまで強い自意識は持たなく(持てなく)なりました。そのぶん、そんな自意識というか、自己表現への欲求が文章を書くという行為に収斂されていって、それが職業にもなっているわけですから、それなりにうまく自分を社会化できたのだと思います。

だけど今でも、「男らしい」「女らしい」というような「らしさ」への反感だけは、しっかり残っています。
それが、こんな小説を書くエネルギーになっているのだと思います。


とりあえず発表の場がそこしかなかったので、女装誌から出発しましたが、本当は、私の書いた小説をもっと広い層、ことに普通の(自分のことを「普通」だと信じて疑わない――きっとスポーツが得意だったにちがいない――)男性に読んでもらいたいと思っています。

私が世の中に対して持っている反感をはらすため、そんな男性の中に眠っている「女らしきもの」をくすぐってやりたいと思ってるんです、きっと。

 

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