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6.女装の「未来」 |
是とするか否とするかはべつにして、今の世の中がどんどんモラトリアム的になっていることは、誰も否定できないでしょう。大人は子供っぽく、子供は大人っぽく、男は女っぽく、女は男っぽく、そのボーダーが限りなくあいまいになってきています。
これは、けっきょく、世の中のパラダイムの崩壊が起きていることと無関係ではありません。国際政治で二極対立が崩壊し、右上がりの経済成長が終わりを告げ、連合政権が誕生し、さまざまな社会システムが組織疲労を起こしている。言ってみれば(成長とか目標達成、あるいは二項対立とかいうことをテーマとした)大物語が崩壊してきているわけです。以前の章で使った言い方をするなら、暴走しかかる本能というシステムに一生懸命パッチをあてていたら、システム自体がまったく機能しなくなってしまったり、膨大になったパッチ自身が暴走をはじめたりと、収拾がつかなくなってしまった、ということでしょう。この上は、「民族の文化」というOSをバージョンアップする以外に方法はありません。これだけネットワークがグローバルに、かつ高速大容量になっている以上は、さまざまなOSを包含するマルチプラットホームのようなものが考えられる必要があるのかもしれません。また一方で、これだけパーソナルなものが直接ネットワークに結びついてきた以上、OS自体も、異質性を前提とした許容度の広いものになる必要があるでしょう。
そんなふうに大物語の崩壊と組み替えが起こっているのだから、当然、「男と女という物語」も大きくバージョンアップされてきていいはずです。そして、そのひとつの方向というのは、まちがいなく「異質性の許容」ということでしょう。
世の中の人間を、男と女というたった二色に分けて、それを基本に物事を考えていくというやり方は、二極対立という物語が崩壊した今、いかにも古くさく、時代遅れなのだと思います。
たとえばレイプというような性犯罪を考えてみても、その原因は、よく言われるような犯人の異常さや性情報の氾濫にだけあるのではないでしょう。じつは、伝統的な「男と女の物語」が現実にそぐわなくなってきていることに起因しているような気がします。
早い話、「男は力づくでも女を征服する者で、女はそれをよろこぶ者だ」などという「能動性と受動性の神話」を基礎にした物語を心の奥底に持っている人間が、今、現実の生活の中で女にもてるとはとうてい思えません。その結果、レイプ犯は、無理矢理にでも自ら信じている物語を実践に移すというわけです。
こうした悲劇を防ぐためにも、「性」を徹底的に相対化してしまうことは有効だと思います。「性」を固定した絶対的なものとしない視点を持ってさえいれば、レイプなどというリスクばかり大きなことは、ばかばかしくてできないはずです。人間を男と女という二項でとらえるのではなく、つまり、「男らしさ」「女らしさ」というジェンダーの縛りを一度捨てて、もっと多様な存在としての「性」を見てみることが大事なのではないでしょうか。
とは言え、もともと規範性の弱い(つまりバグだらけの本能を持つ)人間が、何らの規範(つまりパッチプログラム)もなしに生きていくのはとうてい無理でしょう。
性に関しても、二人の人間が、社会的文化的規範なしに、つまり、あてはめるべきなんの物語もなしに、独自の存在として、愛し合い、セックスできるとは、やはり思えません。
また、そこに何らかの物語を紡ぐ以上、二人はそれぞれに役割を演じる必要があります。そして、役を演じるには、当然、その役「らしさ」が必要になります。愛と性のシーンでは(たとえそれが無根拠であっても)「男らしさ」「女らしさ」を演じなければならないでしょう。そういう意味では、「らしさ」のない愛は、不可能だと言ってもいいと思います。
ただ、それは、あくまで「役」なのだと心得ておくことはできると思います。愛と性のシーンで、何らかの相対化ができるとしたら、それは、その役、つまり「男らしさ」「女らしさ」を、つねに取り替え可能にしておくということです。(※注4)
論理に繰り返しが多くくどくなってきている気がしますから、ここらあたりで、いちおうの結論をつけておきたいと思います。(私自身が決定的な結論をもっているような問題ではないので、あくまで「いちおうの」です。)
この章に「女装の『未来』」などという章題を付けましたが、私は、「女装」という行為が、人類の未来を切り開くなどという大風呂敷を広げるつもりはありません。「女装」などということは、あくまで、個人の嗜好に添った趣味に過ぎません。
ただ、いまだ絶対的なものと見られることの多い男と女という「性」を、なかんずく、けっして絶対的なものなどではあり得ない「ジェンダー」を、強引に「越境」することで見えてくるものというのは、けっこう重要なことなのではないかという気がしているのです。
女性はすでに、それをはじめています。
男も(「女装」とまで行かなくとも)、「性」に対してそんな相対的で柔軟な視点を持つことが、大物語が崩壊していく時代にはぜひ必要でしょう。未来にわたって異質でパーソナルなものどうしがよりよい関係を持ちながら共存していくためにも、そんな視点が有効なのだと思うのです。
「らしさ」をくつがえすというのは、いわば「よりどころを失う」ということでもあるわけですから、けっこう苦しいことです。でも、苦しいことなら、たとえばスポーツで練習の苦しさを楽しみに転化してしまうように、それを楽しんでしまえばいい。
TV、女装というような行為の中に、私は、そんな積極性をかいま見ているのです。